列王記下21章

2017年11月7日

(内容)

ヒゼキヤ王の死に伴い、その子マナセが王となりました。彼は12歳で王となり、55年間、王位にありました。彼は主の目に悪とされることを数々行い、主の怒りを招きました。

(黙想)

  • マナセは父ヒゼキヤが排除した異教の神々への礼拝を復活させ、エルサレム神殿に異教の祭壇を築きました。信仰という点から見れば、列王記に登場する王の中で最悪の王でした。しかし彼は55年も王位にありました。王としては有能であったと想像できます。この世的に有能であることと信仰的であることとは別であることを思います。
  • マナセは権力者であり、有能であり、家来たちが皆彼に仕えるのを見れば、宗教の面でも自分の思い通りにしたいと願うのは、当然かもしれません。人間は何事も自分の思い通りにしたいと考えますが、願い通りにはなりません。しかし権力者は権力を利用し、自分の思い通りにできる面があります。その結果、マナセは偶像礼拝を盛んに行ったのだと思います。
  • 偶像礼拝がなぜいけないのでしょうか。神が十戒の中で禁じられているので、罪になります。でも神はなぜ、禁じられたのでしょうか。私たちが像に向き合う時、私たちは神さまに向き合うことをしなくなります。神さまのみ心に向き合うことをしなくなります。その結果、像に向かって、自分の願いだけを語るようになります。神さまは、私たちと交わりを求められるがゆえに、偶像礼拝を禁じておられます。
  • マナセは55年在位しました。神殿に異教の祭壇を築くなど神を怒らせました。神は、即座に裁きを行い、マナセを王から退けたり、外国の侵略で苦しめることはしませんでした。神さまはマナセに対しては、忍耐をもって臨んでいたと思います。マナセの悔い改めを待っていたということができます。
  • しかしマナセには悔い改める気持ちはなく、神さまはユダ王国に対する裁きを予告します。神の裁きとして災いがユダに臨む時、人々は非常に驚くほどだとあります。そして神はユダを「見捨てる」と語ります。神に見捨てられる、これが罪がもたらす報いです。
  • マナセの子アモンは、「主を捨て、主の道を歩まなかった」(22節)とあります。人間が先に主を捨て、主の道を歩まず、主の目に悪とされることを行います。人間が神さまを見捨てない限り、神さまの方から私たちを見捨てることはありません。
  • マナセは「ユダにまで罪を犯させた」(11節)とあります。彼は積極的に偶像礼拝を犯し、ユダの民に偶像礼拝を行わせたと指摘されています。上に立つ者の行動は下にいる者たちに大きな影響を及ぼします。私が金沢元町教会に赴任した時、ある方が忠告を与えてくれました。「飼い犬は飼い主に似る」。牧師のあり様が教会員に影響を与えるということで、私はこれを心に刻みました。

 

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • 神は、神の民が、律法に従って生きることを願う方であり、民を祝福することを願う方です。
  • 神は戒めに背く者には裁きを下しますが、即座に裁きを下すとは限らず、忍耐をもって、人々が悔い改めて神に立ち帰るのを待たれるお方です。
☆神が求める私たちの生き方
  • (命令)律法(神の戒め)に従って生きること。
  • (罪)神の戒めに背く、それが罪です。神に背くとは、神を見捨てることです。
  • (教え)信仰とは、神との交わりであることを教えられます。人間が神に背を向けることによって、神との交わりが成立しなくなります。
  • (罪)偶像礼拝は罪です。偶像礼拝はなぜいけないのでしょうか。それは神のみ心に聞くことを忘れさせ、人間の願いだけを告げることに終わるからです。神のみ心に聞き従うことが忘れられる時、私たちも内なる偶像を造っているかもしれません。
  • (警告)マナセは積極的に偶像礼拝をし、神殿に異教の祭壇を築き、民を偶像礼拝に導きました。上に立つ者の責任を思います。牧師のあり様は、信徒の信仰生活に影響を及ぼします。牧師には自己批判がいつも必要となります。

 

(神の導き)

☆祈り
  • 神さま、あなたはいつも忍耐をもって私たちに臨んでおられることを思います。私たちはあなたの忍耐を当然のことと思ってはいけませんね。あなたは私たちがあなたに立ち帰り、あなたのみ心に聞き従うことを待っておられるのですね。聖書には、神さまの教えが沢山あり、そのすべてを意識して、そのすべてを守ろうとすることは困難です。日毎に聖書を読み、そこから教えられることに聞き従う、あるいは日曜の礼拝で示されたことを一週間かけて従う、これが私たちにできることだと思います。
  • また神さま、牧師のあり様は、説教にも現れてくることを思います。説教の中には、牧師の信仰に生きる姿勢が、生きている姿そのものが現れてくると思います。特に説教の準備をする時、聖書に取り組む中で、自分自身が何を聞き、それにどう従おうとしているのか、それが説教に反映しなければならないと思います。11月26日、説教の奉仕が与えられています。何かを信じるとは生き方が変わることだというメッセージが頭の中に響いています。ただこのメッセージそのものは福音ではなく、単なる教えに過ぎません。説教の聴き手と同時代に生きる者として、聖書テキストに向き合いたいと思います。
☆与えられた導き
  • 説教テキストを黙想する。

この記事を書いた人