2019年4月11日
(内容)
- ゲッセマネでのイエス様の祈りが書かれている。
(黙想)
- マルコ、マタイのゲッセマネの出来事の記述と比べるとルカの記述は簡略である。
- マルコ、マタイは、イエス様の気持ちを描く。イエス様は弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」とご自分の気持ちを伝えている。この言葉はルカにはない。ルカはイエス様の祈っている姿を描く。「苦しみもだえ、切に祈り、汗が血の滴るように地面に落ちた」と。
- 「この杯をわたしから取りのけてください。しかし私の願うことではなく、御心を行ってください」との祈りは三福音書共通である。
- 杯を取りのける、それは十字架の死を回避することである。父なる神様に対して従順に歩むイエス様であるが、十字架の死は避けて欲しいとの願いを語る。イエス様は御自分の気持ちは正直に神さまに伝えている。
- 神さまに対して従順に歩むためには辛い選択をしなければならない時がある。「これは回避させてください」と祈ることは許されている。イエス様もそうされた。イエス様は模範。そういう辛い選択を迫られる時、私たちは頭の中で堂々めぐりをすることがある。「選択しなければならない。でもその選択は辛い。しかしそれはみ心だから選択しなければならない。でもその選択は辛い。・・・」。果てしない心の葛藤が続く。
- イエス様は模範。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と成り行きを神さまにゆだねている。イエス様は逃げることなく、前に進む。イエス様にとって大切なことは、御心が行われることである。自分の許容範囲内で神に従うことではない。
- 心の葛藤から脱却するのは祈りによって。イエス様の心の葛藤のすさまじさが、汗が血が滴るように地面に落ちたとある。なぜイエス様は十字架の死を避けたいと思ったのか。十字架の死、それは神に見捨てられる死だから。神に見捨てられることを味わう、それは大変な恐怖である。「死の恐怖」の正体は、神さまに見捨てられることの恐怖である。絶望とは神さまに見捨てられること。イエス様はこの絶望と戦って祈った。
- マルコとマタイは、この戦いをしようとするイエス様の気持ちを「死ぬばかりに悲しい」と描く。ルカは苦しみもだえて祈るイエス様の姿を描く。どちらにしろ、切ない。あまりにも切ない。イエス様は私のためにこの苦しみを味わわれた。
- イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。弟子たちは眠ってしまった。マルコやマタイは、「ひどく眠たかった」と弟子たちが寝た理由を書くが、ルカーは「悲しみの果てに眠った」と書く。過越の食事の時、弟子たちの一人がイエスを裏切るとのイエスの言葉。あるいはペトロに対して三度の裏切りを予告。これまでに三度、イエス様は自分の苦難の死と復活を弟子たちに語っていた。弟子たちの心には、不吉な思い、不安な思いがあったにちがいない。それが「悲しみ」かも知れない。悲しみの果てにとあるが、やはり眠かったので寝たと思われる。
- この場合の誘惑とは何か。この後弟子たちは、イエスを見捨てて逃げることになる。自分たちも捕らえられるかも知れないとの恐れにとらわれ、イエスを見捨てて逃げてしまった。自分の身を守るという誘惑を指しているのか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)「この杯を取りのけてください」と正直に自分の気持ちを神に祈る方。同時に、自分の願いではなく、神のみ心の実現を願う方。
- (御子)心が葛藤する時、祈りによって対処しようとする方。
☆神が私たちに求められる生き方
- (勧め)誘惑に陥らないように祈ること。
- (勧め)心に葛藤のある時、祈り、神の導きにゆだねること。
- (勧め)自分の許容範囲内で神に従うのではなく、神に従うことを第一として生きること。
- (模範)真剣に祈るイエス様の姿。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書で一番心に残るのはイエス様が苦しみもだえながら祈っているお姿です。祈りが真剣です。祈りが日々のお務めになってしまうことについて考えさせられます。伝道が盛んになるようにとの願いは、今日一日祈り続けたとしてもすぐに実現するわけではなく、忍耐強く祈り続けることが大事と思っていますが、その祈りが務めになってしまう可能性もあります。それゆえ、時に、時間を取って祈ることが必要だと思わされました。
- まもなくイースタです。イエス様の復活を思う時、私には一つの思いがあります。福音を罪の赦しに限定して考える傾向に対する憂いです。罪に打ち勝って生きる喜びの声が聞こえてこないのです。その原因には礼拝で語られる説教があると思います。このことについては祈りの課題として祈っていますが、今日は時間を取ってこのことのために祈りたいと思いました。
- 罪の赦しだけなら、十字架の死でいいのです。ですよね、神さま。主イエスは復活されました。私たちは主と共に死に、主と共に生きます。主と共に生きる時、罪に敗北し続けるような信仰の歩みであるはずがありません。罪に打ち勝ち、あなたに賛美を献げる信仰の歩みが生まれるはずです。祈ります。
☆与えられた導き
- 福音が余すところなく宣べ伝えられるように祈る。