2019年6月29日
(内容)
- サマリアの女性は町に戻り、「見に来てください」と人々に伝えた。すると人々はイエスのもとに来た。人々はさらに自分たちの所に留まるようイエスに頼んだ。イエスの話を聞き、イエスを信じた。
(黙想)
- サマリアの女性は水を汲みに来たのに、水がめを井戸のそばに置いたまま町に戻った。そして町の人々にイエスのことを伝え、「見に来てください」と語った。水がめを置いたまま、ということは気持ちが急いていたというか、一刻も早く町の人にイエスのことを知らせたいと思っていたにちがいない。
- この段落で気づくことは、サマリアの町の人々が、「女の言葉によってイエスを信じた」(39節)、「イエスの言葉を聞いて信じた」(41節)。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。ここでは「聞いて信じる」ことが強調されているように見える。
- 後にイエスはユダヤ人の中でしるしを行い話しをされるが、ユダヤ人はイエスを信じようとはしなかった。サマリア人の信仰と対照的である。神の民のユダヤ人が信じないで、異邦人とされるサマリア人が信じる。イエスが復活されたとき、女性たちが弟子たちの報告したとき、弟子たちはイエスの復活を信じたとは思えない。
- 聞いて信じることが大切である。しかし何を聞くのかに注意をしなければならない。なんでもかんでも聞いて信じるのでは惑わされることもある。鵜呑みにしてはいけない。聞いたことが信ずべきことか否か、まやかしか否か、判断しなければならない。判断基準は何か。それは聖書である。
- 「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使徒言行録17:10~11)。
- 私たちも説教を聞くとき、説教者の語ることを鵜呑みにしてはいけない。聖書に基づく説教だとしても、自ら聖書を調べて確認することはしてもいい。そして聖書に合致しているなら受け入れ信じることが大切だ。
- 私たちが気をつけなければならないのは、自分を基準にして聞いたことを判断することである。聞いたことを自分が信じられるか否かで判断してしまうこと。これは間違い。私たちは罪を犯す者なのだから、そんな自分の考えを基準にして判断するのは、間違いのもと。信仰者なら、聖書を調べることが大切だ。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- (勧め)聞いて信じること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝です。終末の事柄については、私は自分を基準にして考えてきましたので、本気で信じることができませんでした。それはいけないと思い、聖書が語ることは素直に信じようとしてきました。そして今日も、聖書が告げるゆえ、素直に信じるように促されたことを感謝します。
- 父なる神、終末のことを本気に信じないと、伝道できないという面があるのではないでしょうか。死んだ後、イエス様を信じていようといまいと、皆天国に行くとしたら、伝道する必要はありません。日本人は、死んだ家族と向こうの世界で会えるという素朴な信仰を持っている人が多いように思います。人がそう語るのを何度も聞きました。でも聖書が語るように罪人が滅びるとしたら、自分の大切な人に伝道するように促されます。サマリアの女性のように、「さあ、見に来てください」と人々をイエスのもとに連れて行くと思います。
- 伝道するためにも、本気で信じたいです。導いてください。
☆与えられた導き
- 終末の事柄を本気で信じることができるよう、神さまの導きを祈り求める。