ヨハネ福音書5章9~18節

2019年7月10日

(内容)

  • 38年間も病気で苦しんでいた人が床を担ぐ姿を見てユダヤ人たちは、床を担ぐのは律法で許されていない、とその人を咎めた。そこからユダヤ人たちはイエスを問題にした。安息日に禁じられた働きをしたこと、さらにイエスが神を父と呼んでご自分を神と等しい者とされたことを問題にした。

(黙想)

  • ヨハネ福音書においては、イエスの行った奇跡(しるし)はイエスが誰かを示す論争の入り口である。
  • イエスによって病気を癒やされた人に注目すると、彼はイエスが自分を癒やしたと証しをしている。彼は証人である。
  • その彼にイエスは「あなたはよくなった。もう、罪を犯してはいけない。さもないともっと悪いことが起こるかも知れない」と言われた。このイエスの発言は何を意味しているのか。
  • 9章の盲人の目を開ける物語において、イエスは罪と目が見えないこととの間に因果関係がないことを語られた。8章で姦通の現場で捕らえられた女性に対してもイエスは、「生きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。この場合は姦通を戒められたということはできる。
  • 「罪を犯してはいけない」との戒めは、いつでも誰に対しても有効な戒めである。でもなぜこの場面でこの命令なのか。イエスの意図は明確ではない。
  • ユダヤ人たち。彼らは厳格な律法観をもっていて安息日に床を担ぐことを咎めた。この律法観が頑なであることをイエスが咎めたことがあった。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(マルコ3:4)。
  • ユダヤ人たちはある意味頑なな固定観念を持っていたことになる。しばしば人は、そのような固定観念を持ち、大切なことを見落としてしまう。あるいは自分と違う考えを排除してしまう。神学的な立場というものも時にそのような固定観念になってしまうことがある。
  • この箇所でイエスが安息日に病人を癒やしたことについて、その理由は「私の父は今なお働いておられる。だから私も働くのだ」である。安息日の戒めは人間に対して与えられた。この戒めは神には適用されないとイエスは言っておられるかのようである。この点にユダヤ人たちは躓いた。神は唯一。しかも人間が自分が神であると主張するなんて、とんでもないとユダヤ人たちが考えるのは無理もない。
  • 我々だって聖書を神の言葉と言いながら、謙遜に従うかと言ったら、それはむずかしいとか不可能だとかいって、聖書の戒めに従わないことはあるし、徹底して神さまに信頼することを拒んでしまうこともある。
  • イエスはご自分と神との関係について語っておられる。神を父と呼ぶ。ここにおいて、イエスはご自分が誰かを明らかにされた。イエスは神の子であるとヨハネ福音書は主張する。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエスは神を父と呼ぶ。ご自分が神の子であることを語る。
  • (御子)「父は今なお働くので私も働く」とイエスは言われた。いえすは父なる神の御心を行う方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (警告)一つの立場に立つことは大切なことである。しかしそれが固定観念となって、真理を拒絶するようになってはいけない。真理に対して開かれた心は大切である。
  • (模範)イエスは「父は今なお働くからわたしも働くのだ」と言われた。このイエスの言葉は、私も告白すべき言葉である。父なる神様も、福音宣教をしておられるので、私も福音宣教に従事する。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、「父は今なお働いておられる。だから私も働くのだ」。これは心に響く言葉です。引退した者として直接教会に仕える形での働きはできませんが、引退牧師ならではの働きはあるかと思います。そして日本での宣教について大きな壁を感じていますが、できることをしていきたいと思います。何よりもあなたが働かれ、私は用いられるに過ぎません。今の私にとっては、ブログで発信することは一つの働きだと思っています。充実した内容となることを願っています。神さまの導きをお願いします。
  • 固定観念について思うところがあります。それはイエス様が授けられる聖霊による洗礼です。「聖霊による洗礼」については二つの立場が知られています。一つはこの洗礼には異言が伴うという立場です。水の洗礼とは別なものであり、信仰者になってから受けるものという理解です。
  • 今ひとつは、聖霊による洗礼は水の洗礼と同時に与えられるものという立場です。私は後者の立場に立ってきましたが、それでいいのかとの思いがあります。そもそも聖霊による洗礼とは何かがわからないのです。
  • ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降りましたが、あれは聖霊による洗礼です。聖霊による洗礼の本質は、力強く確信をもって福音を宣べ伝えることにあると私は思いますがどうでしょうか。弟子たちが自分たちの知らない外国語で話したことに重点を置くのは本筋から離れているように思います。
  • 聖霊による洗礼とは何か、私の疑問が解明されるように導いてください。
☆与えられた導き
  • ブログの充実を願い、今日も書く。
  • 聖霊による洗礼は何か、教えてくださいと祈る。

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