2019年9月11日
(内容)
- 人々は、イエスがどこの出身であるか知っていると語ってイエスがメシアであることを認めようとしなかった。イエスは、ご自分が父なる神から遣わされたことを語り、父なる神のもとへ帰ることを告げられた。
(黙想)
- 人々は「この人がどこの出身かを知っている」と語り、イエスがメシアであることを認めようとしなかった。そこでイエスは、ご自分が勝手にこの世に来たのではなく、お遣わしになった方がおられること、その方は真実な方であること、そして方のもとから来たのであり、またその方のもとに帰ることを語られた。
- イエスの言葉には、イエスが父なる神のもとから来たことを人々に説得させる言葉はない。これまでもイエスは、自分を遣わした父なる神と一つであることを語ってきたが、聞く人を説得させる言葉はない。一方的に自分は何者かを語るだけであった。
- 言葉の代わりにイエスは奇跡を行った。誰もができるような奇跡ではない。その奇跡は、イエスが父なる神から遣わされたしるしである。奇跡を行うことは、その人が特別な存在であることを示している。奇跡を目の当たりにしても、それをしるしと見るか否かは、人による。
- この箇所に登場する人々は、イエスがどこの出身かを知っていると語り、イエスがメシアであるはずがないと判断した。ユダヤ人たちは「これはヨセフの息子のイエスではないか」と言ってイエスを信じようとしなかった(6:42)。奇跡を見ても、上辺にとらわれ、イエスを信じない人たちもいる。
- イエスは自分をお遣わしになる方がおられ、その方から自分は遣わされた、と語る。この意識、自覚をイエスはどのようにして持ったのか。僕は牧師に導かれた。牧師就任式の折、「牧師としての召しは、主イエスの召しと信じるか」と問われ、「信じます」と答えた。つまり僕はイエスに召され、福音を宣べ伝えるために遣わされたと信じていると告白している。自分から、自分の思いで、自分の欲で牧師になったのではない。イエスから「福音を伝える者になりなさい」と声を直接聞いたわけではない。しかし「福音を伝える者になりなさい」との召しを受けたと信じている。僕もイエスから遣わされたと信じている。
- イエスも僕と同じように神から遣わされたと信じているのか。それとも父なる神から遣わされたとの特別な自覚があるのだろうか。あると言わざるを得ない。たとえば、5章19節。「イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする』」。ここには父のなさることを見るとある。父の意志をイエスは特別な仕方で理解していたと言える。5章20節。「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」。父は子に示されるのである。どういう形で示されるのかはわからないが、特別な仕方で示されたのだろう。
- 説教者は、神の言葉を語るとされるが、神から直接語るべき言葉を聞くわけではない。聞いたことを語る単なる伝達者ではない。聖書を読み、祈り、神の言葉を求めて、語る。
- ではイエスは神から直接聞いたことを語り、神から示されたことを行うだけの伝達者的存在なのか。それはイエスを特別な存在とするが、機械的な存在つまり神のロボットにしてしまわないか。
- 7章の15節で、人々は「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言っている。人々が驚くほどに聖書をよく知っていることは、イエスがメアイアであることの一つのしるしといってよいのかもしれない。聖書をよく知る、これはイエスの人間的努力の結果と言ってよいと思う。
- いずれにせよ、人はイエスが誰か自分で判断しなければならない。群衆の中には、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と語り、イエスを信じる者が大勢いたとある。
- 自分が信じる者とされたことを感謝すべきである。神が引き寄せてくださったのだから。そして自分がイエスが願うような信仰者になっているのかどうか、吟味する必要もあるだろう。イエスを信じる人とはどのような人なのか。このことを覚えてヨハネ福音書を読み進めていきたいと思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)神のもとから来られた方。
- (御父)御子を遣わされた。真実な方。
- (御子)十字架の死を経てお遣わしになった方のもとへ帰る。
☆神が求める私たちの生き方
- (勧め)御子を信じること
- (警告)上辺で人を判断しない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様のなさった奇跡を見て、イエス様を信じる人がいれば、上辺を見て、イエス様を信じない人たちもいました。私は信じる者とされました。あなたが私を引き寄せてくださったので、信じる者とされました。感謝です。
- 今日の聖書でも群衆の中にイエス様を信じる者が大勢いてとあります。イエス様が行ったしるしを見て、イエス様を信じる、それは大切なことです。イエス様を信じる人は、何を信じ、どのような信仰者になっていくのかが課題ですね。神さまが求められる信仰者の姿、生き方があります。それをヨハネ福音書を読み進める中で確認していきたいと思います。とかく私たちの信仰は自己流になってしまいます。聖書から自分の姿勢を正すことは大事だと思います。
- ヨハネ福音書において、イエス様が提示される信仰者としての生き方を学ぶことができるように導いてください。
☆与えられた導き
- イエス様が求める信仰者の生き方をヨハネ福音書を読みながら学ぶ。