2019年9月25日
(内容)
- この箇所でもイエスを信じないユダヤ人のことが取り上げられている。彼らは聖書をよく知っているのにイエスを信じないのである。
(黙想)
- イエスを捕らえに行った下役たちが登場する。彼らは「今まで、あの人にように話した人はいません」と言い、イエスを捕らえることにためらいを覚え、イエスを捕らえないで帰ってきた。イエスの語ったことに真理があると少しは感じたのかも知れない。その後彼らがイエスを求めたどうかはわからない。
- ファリサイ派の人たちは、あくまでもイエスを信じない。つまり下役たちの言葉、ニコデモの言葉を聞いても、断固信じようとしない。ガリラヤからは預言者が出ない、これが彼らの主張である。メシアはベツレヘムから出ると書いていると聖書をもとにファリサイ派の人たちは主張する。
- 聖書に基づいてメシアが登場したのに、聖書によって受け入れようとしない人もいる。律法学者たちは、自分たちは律法を知っている、と主張する。そして聖書を知っていると暗黙に主張していることになる。聖書の中に書かれている律法には熟知しているかも知れないが、聖書に書かれているイスラエルの歴史、民を救済しようとする神の御心については、無関心である。信仰とは、神の教えを守ること、という単純だが根強い理解があり、これに固執している。
- このことを思うとき、神学的立場ということを考える。ある神学的立場に立つことにより、見失うものが出てくるかも知れない。その神学的立場に固執することによって、聖書が伝えることを見失い、見落とすことがあるかも知れない。ファリサイ派の人たちが反面教師となる。
- あるいは信仰者として、自分が持つ経験、信仰理解に固執する結果、聖書が伝えることを拒むこともあるかも知れない。
- 伝道が困難でむずかしいと嘆く前に伝道について聖書がどう語っているのか、耳を傾けることも必要だと思う。昔先輩の牧師が「礼拝が伝道である」と言った。それは間違いないが、礼拝に固執していて果たして伝道でできていたのか。自分の主張は、検証し、自己批判する謙遜さは必要である。
(聖書に聞く)
☆神が求める私たちの生き方
- (警告)52節。自分は聖書に立って生きていると考えていても、聖書が語る真理を見落としているかも知れないし、真理を語る人を拒むこともあるかも知れない。聖書に照らして自己批判できない人は、どこかで自分を正当化するかも知れない。しかも聖書を使って。
- (模範)46節。下役たちはイエスの語ることを聞いて、そこに真理があるのではないかと感じた。その感じたことを大切にすべきである。そこから新たな歩みが始まる可能性がある。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書を思いめぐらす中で、感じるところがあります。牧師は神学を学びます。それは大切なことです。しかし一つの神学の立場に立つとき、それに固執する危険があります。そういう弊害が聖書に聞くことをおろそかにさせることを感じます。特に「教会は何なのか」「伝道とは何か」。この二つの点で、私たちは聖書に聞くことに失敗しているのはないかと思います。
- 一つの立場に立つ、そして仲間がいるということは安心できます。仲間と共に歩んでいれば、間違いはないとの思いを持つことができます。でも聖書が語ることを見落とすなら、ファリサイ派と同じになってしまいます。
- 私の手元に、ある神学者の書いた文章があります。読まなければと思っていましたが、忙しさに流されていました。「キリスト者とは何か」がテーマとなった文章です。この文章をきちんと読み、批評してみたいと思います。私の聖書理解と、彼の聖書理解、何が違い、何が共通しているのか、問題意識をもって読んでみたいと思います。
☆与えられた導き
- 神学者の書いた文章を読む