ヨハネ福音書11章1~16節

2019年11月27日

(内容)

  • ラザロが死にそうだとマルタとマリアの姉妹はイエスに知らせた。イエスは知らせを受けてもラザロのもとに行こうとしなかった。二日過ぎてから死んだラザロを起こしに行くとイエス言われた。

(黙想)

  • マルタ、マリアの姉妹は、病気のラザロをいやしてほしいとの願いでイエスに使いを送った。しかしイエスはラザロを癒やすために出かけようとはしなかった。
  • ラザロが死んでから出かけた。「ラザロの病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言われた。
  • 私たちの身に色々なことが起きる。それらが神の栄光のために用いられると信じてよいのではないか。生まれつきの盲人も、神の栄光が現れるために盲人であったとイエスは言われた。人生は私たちの思い通りになるのではなく、神の御心が行われるとイエスは教えているように思える。
  • 盲人もラザロも、イエスの働きにより、目が見え、死者の中から生き返った。神の栄光がすぐ現れた。私たちの身に起きたことが神の栄光のために用いられることは、すぐには分かるとは限らない。神の栄光が現れるというと特別なことが起きるように思える。そうではなく、そこに神のみ業、導きを見ることができると考えてよいのではないか。つまり、私たちの人生は神の導きの中にあると確認できる。それが神の栄光を見ること。
  • イエスが死んだラザロを生き返らせるのは、弟子たちが「信じるようになるためである」とイエスは語った(15節)。弟子たちはすでにイエスを信じているように思えるのに、なぜこの言葉か。
  • イエスを信じると言っても、私たちは常にイエスを信じる人になっていくことを教えられる。私たちはイエスを信じたと言っても、その行動はいつもイエスを信じた人にふさわしいものとは限らない。私たちはできあがった信仰者になるのではなく、日々の歩みを通して信仰者になっていくことを思う。
  • 弟子たちはイエスに、ついこの間ユダヤ人から殺されそうになったのにまた行くのですかと咎める。しかしイエスはいのちの危険を犯しても突き進む。それは無茶をしているのではない。でも9節の言葉は分かりにくい。「昼間歩けばつまずかず、夜歩けばつまずく」。それは分かるが。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)4節。イエスには考えがあり、姉妹の要請に応えなかった。イエスはラザロを生き返らせるつもりである。それは神の栄光が現れるためであり、弟子たちがイエスを信じるためである(15節)
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)15節。弟子たちはイエス様を信じていたが、なお「信じるようになるため」とある。私たちは信仰者としてできあがっているわけではなく、より信じる者へと変えられていく、成長していくことを教えられる。
  • (教え)私たちの身に起きることについて、こうなってほしいとの願いが私たちにあったとしても、神は私たちの願いとは別な方向に導こうとしているかも知れない。
  • (教え)神の栄光を見るとは、神のみ業を見ること。私たちに対する神の導きを見ることは、神の栄光を見ることである。そういう意識を私たちは持っていないかも知れないが。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私が牧師を引退したのは、神さまの導きがあったと信じています。引退の時期を決めるのは簡単ではありません。心身共に限界が来たなら、それは自然に定められた時と言えます。でも私は、あるきっかけがあり、それで引退を決心しました。そのきっかけはあなたが与えてくださったと信じています。
  • 引退するということは、「もう牧師としての働きを終わりにしていい」ということなのでしょうか。それとも別な形での働きを期待されていると考えてよいのでしょうか。今はそう考えたいです。
  • 私たち一人の人間の働きはささやかなものですが、神さまは、私たちの働きを用いられるお方です。今私は無牧の教会の礼拝に奉仕をし、またインターネットを用いての情報発信をし、福音の証人として生きています。このことは、あなたの導きとして、あなたに用いられての働きであると信じます。どうぞ私をさら導き、用いてください。私を導いてくださる神さまの栄光を見つつ歩む者として下さい。
  • 私はあなたに用いられている、そのことを心に留め、感謝をささげます。そしてあなたをたたえます。なお用いてください。
☆与えられた導き
  • 神さまに用いられていることを喜ぶ。今日はケーキを食べて喜ぼう!

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