2020年1月22日
(内容)
- イエスは弟子たちにお新しい掟を与える。「互いに愛し合いなさい」。それによって、イエスの弟子であることの証しができる。
(黙想)
- ヨハネ福音書のイエスの教えは、イエスが在世時に人々に教えた教えというよりは、復活されたイエスの教会に対する教えと考えることができる。そうすると「わたしの弟子であることを、皆が知るようになる」は、証しが求められる状況があるのかも知れない。つまり自分がキリスト者であることを明らかにすべき状況。言い換えると迫害の状況。潔く信仰者であることを示すか、あいまいにしてしまうか。
- 互いに愛し合うことによって、キリストの弟子たちが集うキリストの教会であることを証しする教会。礼拝や集会を守り続けるだけで、キリストの教会を名乗ることができるのか。そんなことを考えさせられる聖句である。キリスト者がイエスの弟子であることを強く語る説教はなされていないのではないか。僕もしなかった。説教を聞く多くの信徒は、「弟子だなんて、とんでもない」との反応を示すだろう。なぜ、信仰者は弟子であるのか、そのことを明確にしなければならない。そうしないと説教できない。
- 「キリスト者」「クリスチャン」という言葉は、よく使われる言葉で、信仰者の実質を示す言葉ではなくなった。単なる呼び名。しかし「弟子」という呼び方は、その人がどんな人かを示す呼び名である。
- 「互いに愛し合うことによって、あなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」とイエスが語ったことは、自分がキリスト者であることが人々に分かるような信仰者になりなさいとの教えとなる。
- マタイ福音書では、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5:13)とあり、これも信仰者が、信仰者らしい姿を他の人々に見せるべきことを教えている。
- キリスト者は、キリスト者らしい姿を示すことが教えられる。互いに愛し合うことによって。そして信徒が互いに愛し合うことによってキリストの教会であることを示すことも教えられる。
- パウロは「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願っている」と語る。これは僕の祈りの課題でもある。
- 互いに愛し合えば、後の結果は色々ついてくるので、互いに愛し合うことに徹すればいいのだ。イエスに愛されたように。大事なことはイエスに愛されていることを確認し、忘れないことだ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- (御子)イエスは弟子たちを愛し抜かれたお方である。
☆神が私たちに求める生き方
- (勧め)弟子たちが互いに愛し合うこと。私たちが互いに愛し合うこと。
- (模範)愛し合うことの模範はイエスが示されている。イエスの模範に倣い、互いに愛し合うのである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私たち信仰者はイエス様の弟子であることを教えられました。弟子という自覚を持ち、弟子であることが知られるような歩みをしたいと願います。そのためには互いに愛し合うことです。これはひとりではできません。信仰者の集団の中で、互いに愛し合う努力ができます。でも最初は、自分が他の人たちを愛することから始まります。
- 家庭においては、まず伴侶を、子供たちを、親たちを愛することから始まります。教会では他の信仰者たちを愛することから始まります。幸いに愛し合う夫婦関係を築くことができました。愛し合う親子関係も築けたのではないかと考えています。次のステップは教会です。そして私は牧師ではなく、一人の信仰者です。教会の一人のメンバーです。
- まずは、祈祷会に参加しているメンバーのために祈ります。メンバーの発言をよく聞き、何を祈ったらよいのかを考え祈りたいと思います。今日は祈祷会なので、メンバーの発言によく耳を傾けることができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 今日の祈祷会でメンバーの発言をしっかり聞く