2020年3月3日
(内容)
- イエスは、自分が世を去るのは弟子たちのためになると言う。弁護者が来て、世の誤りを明らかにするからと理由を語る。世は、罪、義、裁きについて間違った理解をしている。。聖霊のことがここでは「弁護者」と言われる。
(黙想)
- 弟子たちの心は悲しみで満たされている。それはイエスが弟子たちがついて行けないところへ行くと言われたからである。さらには弟子たちは迫害に遭うことも告げられた。しかも神に奉仕していると考えている者から迫害されるという。
- この福音書の14章の最後は「さあ、立て。ここから出かけよう」とある。イエスが弟子たちと最後の晩を過ごしたときの、イエスの弟子たちとの会話が、14章、15~16章と二つあることになる。
- 15~16章において、15章11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と語り、16章1節では、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」と語る。そして4節で「はじめからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである」と語る。
「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」。これはこの福音書の読者、つまり迫害の中にあって、イエスが共におられないかのように感じている読者に対しての言葉と考えることができる。イエスの直弟子のようにイエスとの直接的な交わりはないかも知れない、しかし弁護者が共におられ、弁護者は世の誤りを明らかにするという。このことを知ることによって信仰者たちは、考え方が新たにされる。つまり迫害を受けていることに対して、新たな理解を得ることができるのではないか。 - 「罪」についての世の誤り。イエス自身は、当時のユダヤ人つまり律法学者たちやファリサイ派の人々から苦しみを受けた。彼らは神を信じており、神に奉仕していると考えて(16:2)、イエスを苦しめたのである。それと同じ事が起きているのである。福音書の読者もユダヤ人から迫害を受けている。
- そもそも罪とは何か。律法を守るとか守らないとか、ではない。救い主として神はイエスを送った。イエスを救い主と認めるか認めないか。認めないことが罪なのである。世は、つまり神を信じるというユダヤ人たち、律法学者やファリサイ派の人たちはイエスを認めなかった。これが罪なのである。この福音書の9章に具体的に書かれている。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
- 神を信じるというユダヤ人。その神がイエスを救い主として送られたことを認めないのは、誤りであり、罪なのである。
- 義についての世の誤りとは何か。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。わかりにくい。イエスが父のもとへ行き、弟子たちがイエスを見なくなることとは、イエスが十字架の死を遂げ、天に帰ることを指している。ファリサイ派や律法学者たちから見たら、イエスは神を冒とくし、律法を破ったのだから、死罪に当たり、イエスが十字架で死んだことは神の御心に一致することなのである。世、つまりユダヤ人たちは自分たちは神の前に正しいことをしていると考えていた。義は自分たちにあると考えていた。でもそれは間違っていた。ということなのか。
- 裁きについての世の誤りとは何か。この世の支配者が断罪されることとある。イエスはこう言っている、「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」。世の支配者とは、ユダヤ人たち、律法学者とファリサイ派の人たち、宗教指導者たちのことか。彼らがイエスを殺したことが間違いであることが明らかとなり、断罪されるということか。
- イエスを信じないで、イエスを殺したことは罪であり、彼らのこうは神の前に決して正しく(義)はなく、罪と断罪されるということか。
- 弁護者、真理の霊が来ると世の誤りを明らかにするという。真理の霊に導かれる者とはイエスを信じる者たちである。具体的な実例としては使徒パウロがいる。使徒パウロは神に熱心に仕える者としてクリスチャンを捕らえ殺そうとしていた。しかし復活の主イエスに出会い、180度の転換を遂げた。まさに世の誤り、自分の誤りを知らされた人物である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日の箇所は私にとっては課題の箇所でした。聖書の意味がよく分からない箇所でした。弁護者が来ると世の誤りを明らかにするとあります。この世の誤りが何であるのか、私の理解は曖昧のままでした。でも今日聖書を読み黙想をしました。自分の黙想が解釈として正しいのか、間違っているのか、聖書の意味するところは何なのか、きちんとしたいと思いました。今日は、適用として、いくつかの注解書を読んで、聖書の意味するところを確認したいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- 注解書から、今日の箇所の解釈について学ぶ。