2020年3月17日
(内容)
- イエスは、父なる神に、弟子たちを守ってくださるように祈る。そして世を去る前に弟子たちに色々話をされましたが、それはイエスの喜びが弟子たちの内に満ちあふれるためであると語る。
(黙想)
- 場面としては、イエスが十字架にかけられる前の晩。イエスは弟子たちに、自分はこの世を去ると告げる。弟子たちのついて来ることのできないところへ行くが、また戻ってくるとも語る。さらにイエスは弟子たちが迫害を受ける可能性のあることも告げる。そのような中で、「これらのことを語るのは、わたしの喜びが弟子たちの内に満ちあふれるためである」と語る。
- イエスの喜びとは何か。スポーツ観戦、演奏会に行くなどの喜び、登山の喜びなど趣味を楽しむ喜び、家族の団らんの喜びもイエスにはなかったと思う。おいしいものを食べること、お酒を飲むこともイエスの喜びではなかったと思われる。少なくとも、私たちが日常的に普通に喜びとするような喜びは、イエスの「わたしの喜び」ではないと思う。
- イエスにとってその短い生涯、そして「わたしの喜び」となる喜びは、父なる神との関わりによって得る喜びであると思う。イエスは父なる神の御心に歩み、父なる神に栄光を与えるのが使命であれば、この使命を果たすことがイエスの喜び、と言えるのではないか。さらには父なる神との交わりに生きることがイエス様の喜びと言えるのではないか。とすれば弟子たちも神に栄光を与える、あるいはイエスに栄光を与える歩みをするなら、それはイエスの「わたしの喜び」を喜ぶことになるのではないか。そしてイエスの喜びが弟子たちの内に満ちあふれることになる。この満ちあふれは、僕はまだ経験していない。でも「わたしの喜び」を自分の喜びとしていることは確かである。この喜びは、自然に得ることのできる喜びではなく、イエスから教えられて知る喜びである。
- たとえで言えば、封建制の時代に家臣が主君に仕える喜びを味わっていたとすれば、その喜びがイエスの喜びに近いかも知れない。仕えることが喜びとなる。イエスは父なる神に従う歩みをしている。
- イエスは父なる神に御自分の栄光を求めている。父なる神から栄光を与えられる、それもイエスの喜びと考えてよいのではないか。イエスが栄光を受けるとは、イエスがメシア、救い主であることを人々が認めることである。イエスを信じる人たちの存在、それがイエスの喜びである。弟子たちはまさにイエスの喜びそのものといえる。
- イエスは、弟子たちは世から選び出され真理の言葉によって聖なる者とされる、と語る。弟子たちが聖なる者とされ、真理の言葉によって歩むのを見ることはイエスの喜びと言えるのではないか。そしてみ言葉を教える者は、学ぶ者が真理の言葉によって歩むのを見ることは喜びであり、信仰者はお互いに真理の言葉によって歩むことを喜びとすることができる。
- 自分自身が真理の言葉によって歩めることは、イエスの喜びであり、他者が真理の言葉によって歩むのを見るのも喜びである。人々を真理によって歩むように導き、また分かち合うこともイエスの喜びを喜ぶことになるのではないか。
ヨハネ二1:4
あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。ヨハネ三1:4
自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>13節。イエスの喜びが弟子たちの心に満ちあふれることを願う方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>13節。イエスの喜びを得ること。満ちあふれるようになれば幸いである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様の喜びについて思いめぐらすことができ感謝します。イエス様の喜びとは、あなたとの交わりに生きる喜びであり、あなたに仕え、あなたに従い、あなたに栄光を与えることを喜ぶ喜びですね。またあなたから栄光を受ける喜び、言い換えると、イエス様の働きが救い主であることを人々が認め、イエス様を信じる者たちが信仰に歩むのを見る喜び、それがイエス様の喜びですね。
- 私も神さまに仕え、神さまの従う歩みをしていますが、自覚的にこのことを喜びたいと思います。自分の働きは十分ではないと思うと、喜ぶよりも働きの不十分さに思いが向かい、自分を責めたりする傾向がありますが、これは間違いですね。自分の働きを導いていただけたことを喜び、さらに努力をすればいいのですね。
- 牧師の働きから隠退はしましたが、インターネットを利用して福音を伝える働きをし、神さまに仕える働きを喜びたいと思いました。喜ぶべき事があるのにそれを喜ぶことを知らなかったのですね。喜ぶことができるように導いてください。「いつも喜んでいなさい」とパウロは語っています。喜びます。
☆与えられた導き
- 神さまに仕える働きができることをもっと喜ぶ。
- 今日は讃美歌「わが喜び、わが救い」で賛美する。