ヨハネ福音書 20章19~23節

2020年4月18日

(内容)

  • ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵を閉めて家の中にいた弟子たちにイエスは現れた。弟子たちは主を見て喜んだ。そしてイエスは、弟子たちに罪を赦す権威を与え、聖霊を受けさせ、弟子たちを遣わす。

(黙想)

  • イエスは恐れの中にいる弟子たちに現れ「あなたがたに平和があるように」と二度弟子たちに語られた。イエスの言葉を聞き、弟子たちの心は平安になったと思われる。イエスご自身が平和であり、私たちに平和を与える方であると知る。恐れの中にある時は、心で「あなたがたに平和があるように」とのイエスの声を聞くことが大切だ。
  • 弟子たちはイエスによって遣わされる。聖霊を受け、罪を赦す権威を与えられて遣わされる。しかし何の目的で遣わされるのかは漠然としている。罪を赦す権威を弟子たちは与えられているが、それが目的なのか。どの福音書もイエスは弟子たちを派遣している。
  • マタイ福音書では「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とイエスは弟子たちに命じている。マルコ福音書では「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。ルカは、弟子たちに聖霊を受けるまで待てと語り、使徒言行録で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束の形で弟子たちの使命を語っている。
  • ヨハネ福音書は、はっきりとした目的を持って書かれている。弟子たちがどのような目的で遣わされたのかは、明確でなくてもよいのかも知れない。ヨハネ福音書は、イエスが神の子メシアであり、イエスを信じる者には永遠の命が与えられることを証しすることを目的としている。
  • ヨハネ福音書はイエスの十字架の死が贖罪のための死であることはあまり語らない。最初で洗礼者ヨハネがイエスを指して「見よ、神の小羊」と語り、イエスが贖罪のために屠られた神の小羊であることを告げており、この箇所で罪の赦しに触れている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御子>イエスは弟子たちを派遣する方である。
  • <御子>「あなたがたに平和があるように」と平和を与える方である。
  • <御子>御自分の手とわき腹を見せ、十字架で死んだ方であることを示し、復活したことを証明している。
  • <御子>弟子たちに聖霊を受けさせている方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <約束>「あなたがたに平和があるように」とのイエスの声を心で聞くとき、恐れの中にあっても、心の平和が与えられる。
  • <教え>私たちもまたイエスによって遣わされている。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日の聖書を読んで、イエス様は「あなた方を遣わす」とおっしゃいました。私もあらためてイエス様から、「あなたを遣わす」との声を聞いた思いがします。
  • 私はすでに引退牧師ですから、教会に派遣されているわけではありません。でもあらために主から「あなたを遣わす」との声を聞いた思いがします。私はインターネットを通して発信をしています。一つはデボーション。自分が聖書を読んでみ言葉によってどう生きているかを発信しています。これには二つの目的があります。
  • 一つは、私は牧師として仕えているとき、信徒にデボーションを教え、み言葉によって生きるように導きました。私がみ言葉によって歩んでいる姿を見せ続けることは、教えた者の責任であると思っています。第二にあらたにみ言葉によって生きる人が生まれればと願っています。
  • また「クリスチャンを元気にする」と題してブログを書いて発信しています。
  • これらのインターネットを利用した福音伝道に私は遣わされていると自覚するように呼びかけられていると受けとめました。これらを自分の主たる務めと受けとめ、この務めを果たしていきたいと思いました。午前中はデボーションと祈り、午後にブログによる発信を日課とすることにします。
☆与えられた導き
  • インターネットを利用した発信を主から遣わされた務めと自覚し、これを行っていく。

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