第一テサロニケ 2章13~16節

2020年7月9日

(内容)

  • テサロニケ教会の人たちが、パウロから神の言葉を聞いたとき、それを人の言葉としてでなく、神の言葉として受け入れたことをパウロは感謝している。テサロニケ教会の人たちが信仰のゆえに苦しんでいることを、ユダヤの諸教会に倣うものになったと語る。

(黙想)

  • 福音を宣べ伝える言葉は、神の言葉である。しかし人が語るので人の言葉でもある。しかしそれを神の言葉と信じて聞き受け入れる。そこに信仰がある。テサロニケの人たちが神の言葉として受け入れたことをパウロは感謝している。
  • 人の言葉として聞くのと神の言葉として聞くのと何が違うのだろうか。神の言葉として受け入れるとき、それは聞く人の中で「現に働いている」と書かれている。つまり神の言葉はそれを聞く人に対して権威ある言葉となり、聞く人がそれに聞き従うようになる。聞く人を従わせる力、それが神の言葉にはある。
  • 自ずと自分に服させる力を持つ、それが神の言葉である。この世では権力を持つ者の言葉は人を従わせる力がある。それは権力者は自らに従わない者に報復を与えるからである。人は報復を恐れて権力者には従う。
  • 神の言葉は、そのような恐れを与えることなく、自ずと従わせる力を持つ。そしてテサロニケの人たちは、パウロたちの語る神の言葉を受け入れ、信仰を持った。聖霊による喜びをもって受け入れたのである(1:6)。そしてキリストの再臨を待ち望むようにさえなった(1:10)。
  • そして今日の聖書では、テサロニケの人たちは信仰のゆえに同胞から苦しみを受けるようになった。だからといって信仰を捨てるわけではない。むしろ苦しみを受けてもなお信仰を貫くのである。パウロはそれを、ユダヤの諸教会に倣うものとなったという。ユダヤの諸教会も同胞のユダヤ人アから迫害を受けている。テサロニケ教会の人たちも同胞から迫害を受けている。このことをユダヤの諸教会に倣うようになったとパウロは書く。迫害という苦しみに意義を見いだしている。苦しみを否定的に考えず、意義あるものとする、それは信仰の働きである。主イエスも十字架の死を人類の救いのために神に仕えることとして受け入れていた。
  • 人々を救うために福音を宣べ伝える働きを妨げる者は、自分たちの罪を増やしているとパウロは語る。その結果として神の怒りが彼らの上に臨むという。この神の怒りは、来るべき怒りであり、終わりの日に臨む怒りである。
  • 現代人はこのような終末があることは信じない。神の怒りが自分に臨むことも信じない。終末の到来や神の裁きはどうしたら信じることができるのだろうか。神を畏れることが必要になるのではないか。神を畏れるとき、罪に対する神の怒りが実感される。神を畏れるという事態は、聖霊の導きによる。そして神の御心を学ぶ中で起きる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>福音宣教を妨げる者には神の怒りが臨む。
☆神が私たちに求める生き方
  • <模範>宣教の言葉を、人の言葉としてではなく、神の言葉として聞く姿勢、信仰。
  • <模範>迫害さえも、ユダヤの諸教会に倣うものと受けとめる姿勢。苦しみに意義を見いだす姿勢。
  • <教え>神を畏れる者が罪を自覚し神の怒りを知る。そして終末の到来を信じる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日の聖書で私が一番印象に残ったことは、パウロが福音宣教を妨げる者たちは、自分の罪を増やしていると語り、そして神の怒りが彼らの上に臨むと語ることです。聖書はあなたを畏れるべきことを教えています。聖書の最初、創世記の3章に、すでにアダムとエバは、あなたを畏れることをせず、悪魔の声に耳を傾け、あなたの言葉に逆らい、とって食べてはならない木の実を食べてしまいました。
  • あらためてあなたを畏れることは、人間にとって何とむずかしいことかと思います。天の父よ、でも私は真にあなたを畏れ、終末を信じ、あなたの御国を信じたいと思います。終末を信じるところから生まれる言葉でもって福音を語りたいと願います。真にあなたを畏れること、それがまだ私には分かっていないのだと思います。
  • 父よ、あなたを畏れることを教えてください。「あなたを畏れることこそ知恵の始め」(詩編111:10)と聖書にあります。私は知恵のない者なのですね。心の貧しい者なのですね。いい気づきを与えられて感謝します。
☆与えられた導き
  • 「あなたを畏れることを教えてください」と祈り続ける。

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