2020年7月10日
(内容)
- イエスは「殺すな、人を殺した者は裁きを受ける」と昔の人が教えたことを引用して教えを続ける。それに対して、「わたしは言っておく」とイエスは神の戒めの深みを語る。
(黙想)
- 「殺すな」。これはモーセの十戒にある戒めである。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちはこの戒めを守っていると主張し自分たちは正しい、義であると語る。イエスはイエスを信じる者たちの義について語る。律法学者やファリサイ派の義に余る義である。
- まず、兄弟に対して腹を立てたり、バカと言ったり、愚か者と言ったりする者は、裁かれるという。命を奪うことは、相手の存在そのものを否定することである。腹を立てる、バカという、愚か者という、それは相手の人格否定につながると思われる。これは殺人に等しいとイエスは語る。腹を立てたくなったり、相手を罵りたくなるときはあるとしても、それをしたら、殺人を犯したに等しいとイエスは語る。神は単に殺人という行為をするなと教えたのではなく、相手の存在を否定するような行為を禁じたのである。相手の命を奪うことを始め、相手の人格を否定するような言動を禁じられたのである。信仰者は他者との関係を大切にする。
- 身近な夫婦関係、親子関係で相手を否定するような言動は、関係にひびを入れることになる。
- このイエスの教えは、世の人々に向かって語られたのではない。イエスを信じる者、クリスチャンに向けての教えである。世の人々から見れば、愚かな教えと一蹴されてしまうだろう。クリスチャンにも腹の立つことはある。その時どうするか、は課題となる。クリスチャンとは、自分の罪を神に赦された者である。神は罪を犯した私たちに対する怒りをイエス・キリストのゆえにおさめるお方である。自分が赦しを受けている者であることは忘れてはいけない。それ故、相手の罪に対して、怒りという形で即座に反応することは問題となる。
- 腹が立ったときどうするかは語られていない。むしろ腹を立てない、ののしらない、そのことによって、クリスチャンの義を示すのである。
- 23節の「だから」には戸惑う。「だから」とくれば、腹が立つときどうしたらいいのか、バカと言ったり、愚か者と言う代わりにどうしたらいいのかが教えられることを期待する。でもそうではない。兄弟が自分に反感を持っているのを知ったら仲直りをせよとの教えである。なぜ「だから」なのか。
- 待て!イエスは殺すなという戒めが意味している深みを教えようとしている。ファリサイ派の義は、文字通り人を殺さなければ得られる義である。ファリサイ派にまさる義をイエスは述べている。直前では、相手の人格を否定するような言葉を禁じた。
- では自分が反感を持たれている時、言い換えると相手が自分に対して怒りを持っていると考えることができる。自分に非があると考えることができる。クリスチャンは完全な人間ではない。間違いを犯し、罪を犯すこともある。誰かを傷つけることがある。そのような時、仲直りをしなさいと言う。自分の非を認めてあやまり、相手に腹を立てる罪、バカと言ったり、愚か者と言ったりする罪を犯させないように、仲直りをせようということなのか。
- もう一つは自分を訴えようとしている人への態度。その人と一緒に裁判官のもとに向かっているとき、和解するようにイエスは教える。何を訴えようとしているのか。26節ではお金の返却が語られているから、何か賠償責任を負っているということか。何が問題なのかはよく分からない。確かなことは和解が勧められているということ。
- 神はイエスを通して、私たちに対して和解の手を述べてくださった。本来和解というのは、加害者が被害者に対して何らかの責任を果たすことを約束してなされるのが和解である。神と人間の場合、罪を犯した人間が何らかの償いをし神に和解を願うのが筋であるが、神の側から和解のみ手を延べてくださった。これは普通ありえないことである。クリスチャンは、このような神の側からの和解を受け、罪を赦された存在である。
- イエスは、自分を訴える人に対して和解しなさいと勧める。自分に非があるのだから、素直に認めて和解することが教えられる。つまり自分の非を認めず、裁判で争うようなことはしないのである。
- このような教えが、「殺すな」とどういう関係にあるのだろうか。相手に怒りを持たせるような行為を避けよということなのか。自分が怒るだけではなく、相手にも怒るような罪を犯させないという教えか。とすれば深い教えであり、人間が思い浮かびもしないような教えである。自分がきっかけで相手が罪の犯すことがないようにとの教え。深い。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- (罪)人を殺すこと。人にバカと言ったり、愚か者ということ。他者の存在を否定するような言動はしてはいけない。
- (勧め)自分がきっかけで、他者が自分に対して罪を犯すことがないようにすること。
- 自分に非があるのに、それを認めず、相手と争い、相手が自分を殺そうとしたり、自分を罵るような言葉を言わせないようにする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あなたの教えの深みを教えられた思いがします。私たちはあなたの教えを守っているつもりになりますが、結局は表面的に守っているに過ぎないことを思います。自分に対する相手の態度を見るとき、自分の行動が何を意味しているのかを知ることができますね。
- 最近は妻とも特に争うこともなく、他者と争うこともないので、今日の教えから反省することを見いだすことは特にありません。ただ神さまの戒めには深みがあることを教えられました。聖書を思いめぐらすとき、深みを意識したいと思いました。相手に罪を犯させないように配慮することです。つまり、神さまの戒めは、私たちに罪を犯させないようにとの神さまの配慮、愛ということですね。これは新しい気づきです。神の戒めをどう理解するのか。パウロは律法は罪の自覚を与えると語りました。律法は、私たちに罪を犯させないようにとの神さまの配慮。これは私にとって新しい気づきです。この気づきを深めてみたいと思いました。
☆与えられた導き
- 新しい気づきを深める。