2021年6月16日
(内容)
- パウロが涙ながらに書いた手紙により、コリント教会の人たちは悔い改め、パウロを正しく理解し、パウロがキリストの使徒であることを再確認した。そのことはパウロにとって慰めとなった。
(黙想)
- 8~11節でパウロはコリント教会の人たちの悔い改めについて語る。パウロが書いたとされる涙の手紙はコリント第二の10~13章と言われる。これを読むとパウロははっきりと自分が使徒であることを語る。パウロ自身の伝道の経験も語られており、使徒として真実に生きている様子が伝わってくる。これを読んで、コリント教会の人たちは、パウロが使徒であることをはっきり認め、別の教師に惑わされてパウロの使徒性を疑ったことを悔い改めたと思われる。
- 8節。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても」(8節)。パウロは自分の使徒性を手紙の中で証しした。それを読んでコリント教会の人たちは自分たちがパウロを誤解したこと知った。パウロは神から召された使徒であるのにそれを疑い、おそらくパウロを批判したであろう罪をコリント教会の人たちは悲しんだのである。
- 9節。パウロの書いた手紙は、コリント教会の人たちを悲しませたかも知れないが、コリント教会の人たちが悔い改めたので、パウロは今喜んでいると伝える。コリント教会の悔い改めを受け入れ、その罪を責める気持ちは持っていないことを伝える。
- パウロが喜んでのは、コリント教会の人たちが悲しんだからではなく、悔い改めたからと書く。自分の罪を知って悲しむだけに終わるのではなく、悔い改めに向かったことをパウロは喜んだ。私たちは罪を犯した自分を憐れみ、自己憐憫に終わることがある。悔い改めに向かわないのである。悔い改めに向かったからパウロは喜んた。
- 自分の罪を悲しみ、悔い改めることは神の御心にかなう。悔い改めたからこそ、パウロの手紙によって悲しみを与えられても、コリントの人たちは害を受けなかったとパウロは語る。害、それは心の傷といってよいのかも知れない。悔い改めによって罪の赦しを得ない限り、過去に犯した私たちの罪は折に触れて私たちの心を刺し、痛みを与える。悔い改めない限り、心は晴れない。
- 10節。罪を悲しみ悔い改めるのは、神の御心に適うことであり、それは救いに通じる。しかし罪を、悲しむだけで悔い改めに至らない悲しみは、世の悲しみとパウロはいう。さらに世の悲しみは死をもたらすとも語る。イエスを裏切ったヨダは、自分の罪を悲しんだが、悔い改めには至らず、自ら命を断ってしまった。まさに「世の悲しみは死をもたらす」一つの例である。
- 11節。「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう」。
- これはどういうことを指しているのだろうか。パウロはテトスから悔い改めたコリント教会の人たちの様子を聞いた。その様子を聞いて、このパウロの言葉が出てきたとするなら、どう考えたらいいのか。
- パウロの手紙を読み、コリント教会の人たちはパウロを誤解し、パウロを批判した罪を悲しんだ。そして悔い改めた。その悔い改めの結果として「熱心、弁明、憤り、恐れ・・・」があるとしたら、これは具体的にどういうことなのか。7節によれば、パウロはテトスから、コリント教会の人たちについて聞いている。コリント教会の人たちはパウロを慕い、パウロに対して熱心であることをパウロは聞いた。よい関係が回復したことが分かる。
- 「例の事件」とあるが、具体的にはよく分からない。「悲しみの原因となった人がいれば」(2:5)とあり、パウロのことを強く批判した人がおり、実際強く批判したことを「例の事件」と呼んでいるのかも知れない。おそらく、その事件の時、コリント教会の人たちは、パウロを強く批判した人にある程度同調していたと思われる。パウロからすればコリント教会全体がパウロに反対しているように思えた。手紙を読んでコリント教会の人たちは悔い改め、彼を責めた。それに対してパウロは、彼を赦し力づけなさいと語る(2:7)。
- パウロは、例の事件について、コリント教会の人たちは潔白であることを証明しと語る。コリント教会の人たちは何の罪も犯していないから潔白ということではなく、罪をきちんと悔い改めたので神の前に潔白とパウロは語ったのだろうか。
- 12節。パウロは手紙を書いた目的を、パウロに対するコリント教会の熱心さを神の前で、コリント教会の人たちに対して明らかにするためとする。パウロは、自分の使徒性を訴える手紙を書いた。コリント教会の人たちはこの手紙を受け入れ、悔い改め、パウロの使徒性を認めた。さらにはパウロを慕い、パウロに対して熱心となった。あの手紙はコリント教会のパウロに対する熱心さを証明するためのものであったとし、パウロは慰められたと語る。
- 手紙を書いた後、パウロの心には安らぎはなく恐れもあった(7:5)。パウロには手紙を書く明らかな目的があった。コリント教会の人たちがパウロを正しく理解し、パウロが神の使徒であることを認めてくれることである。コリント教会とパウロの関係の回復をパウロは願って手紙を書いたし、その願いはかなった。神の導きと信じ、神から慰められたと語る。
- パウロとコリント教会の間の出来事から何を学ぶことができるのか。この出来事の本質は何か。信仰を中心として関係を築くことの大切さを知る。そこには愛がある。神の前の真摯な悔い改めがある。罪を犯す者を悔い改めに導く勇気がある。慰めに生きる人がいる。信仰に生き、愛に生きる教会を形成する熱意がある。そこには恐れや不安もある。恐れや不安に直面し、神に信頼して生きる信仰がある。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>神は、罪を犯した者が罪を悲しみ、悔い改めることをよしとされる方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>罪を犯した場合、罪を犯したことを悲しむだけに終わってはいけない。謙遜に神の前に罪を犯したことを認め、悔い改めることが大切である。自分は神の前に生きる者であることを覚えることが大切である。
(神の導き)
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☆祈り
- 天の父なる神さま、教会を思うパウロの人間的な側面を見ることができました。安らぎがなく、不安だったと書いています。コリント教会との関係が回復するのかどうか心配だったのです。幸いに涙ながらに書いた手紙のおかげでコリント教会の人たちは、パウロを信頼し、パウロを慕うようになり、関係が回復しました。パウロの牧会者としての思いに教えられるものがあります。決して相手を責めず、赦し、力づける姿勢は大切ですね。下手をすれば、自分を弁護し、相手を責め、かえって関係が悪化することさえあります。福音を伝える者の謙遜さの必要を教えられます。
- 教会は愛に生きることが大切ですね。そして私自身が愛に生きることが大切ですね。今の私にできることは祈ることです。昔から老いて自分は何もできないという人に「祈ることができます」とよく言われてきました。この言葉を自分に言い聞かせるべきなのでしょうか。昨日の祈祷会で個人消息が語られ、祈りが求められましたので、その方たちのことを今日は覚えて祈ることにします。
☆与えられた導き
- 祈祷会で個人消息が語られた方を覚えて祈る