2021年7月9日
(内容)
- パウロは霊に仕える務めを与えられている。そして霊は生かすことを文字に仕える務めと比較しながら語る。
(黙想)
- キリストの到来において神の救いは新しい段階となった。パウロもキリストに出会う前は律法を守ることに熱心であり、律法を守ることにおいて落ち度はないと自分を誇りに思っていた。しかしキリストに出会い、考え方が変わった。律法の実践で落ち度がないという誇りは砕かれた。律法は神の御心を示し、信仰者に罪の自覚を与えるものであるとの理解に至った。それゆえ律法は人を罪に定め、律法を教える務めは人を罪に定める務めとなった。律法はそれを守る力を人に与えない。それが律法の限界である。
- 律法は書かれた文字であり、文字に仕える務めは意義を持っている。だからイスラエルの民に律法を教えたモーセの顔は栄光に輝いていた。しかし限界がある。律法はそれを守る力を行おうとする人に与えないのである。この限界をパウロは「覆いが掛けられている」と語っているように見える。
- しかしキリストが到来するに及んですべてが変わった。キリストを信じる者は律法を成就することができる。それは霊の導きによる。パウロの務めは霊に仕える務めである。「覆いが取り除かれ」、信仰者は律法を全うするようになる。
- イエスは言う「わたしが来たのは律法や預言を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)。パウロも言う、「霊に従って歩むわたしたちの内に律法の要求が満たされるためでした」(ローマ8:4)。
- 13節。「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません」。出エジプト記によれば、モーセがシナイ山で神から十戒を授かって山から下りてきたとき、モーセの顔は輝いていた。人々は恐れたので、モーセは顔に覆いをつけたとある。覆いについてのパウロの解釈はパウロ独自のものである。パウロにとって「覆い」とは、律法を実行できないという限界である。
- 14節。その限界、覆いはキリストにおいて取り除かれた。
- 15節。霊の導きを得ない限りモーセの書を読む時は覆いがかけられている。
- 我々が聖書を読むときは、覆いは除かれているのだろうか。聖書は書かれている。聖書を読むとは、そこに書かれている文字を読むことである。我々が聖書を読み、聖書を教えるとき、覆いが取り除かれていると言えるのだろうか。福音の光が見えないように人々の目がくらまされているとある(4:4)。
- 少なくとも、覆いが取り除かれていると明言しない限り、覆いは掛けられたままであると言って良いのではないか。キリストを宣べ伝えれば自動的に覆いが取り除かれるわけではない。取り除かれていない現実は礼拝の中で見ることができる。
- 18節。霊に導かれ、覆いを取り除かれたものは、主と同じ姿に造り変えられていく。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (聖霊)聖霊は、覆いを取り除き、律法を行う力を与える。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)聖霊に導かれるとき、自由が与えられ、律法を行うことができる。
- (教え)キリストを宣べ伝えれば自動的に覆いが取り除かれるわけではない。キリストをどう宣べ伝えるかである。覆いが取り除かれたと語る必要がある。つまりキリストは律法を完成するために来られ、キリストを信じる者は律法を全うすることができると宣言する時、覆いは取り除かれる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、コリント二のこの箇所は、考え方を整理させてくれる箇所です。文字に仕える務めには覆いがかかっているが霊に仕える務めは覆いを取り除きます。キリストを宣べ伝えれば自動的に覆いが取り除かれるわけではありません。霊に仕えるとき、覆いが取り除かれます。聖霊の助けを得て律法を全うすることができると信じることができなければ、覆いを取り除くことができないと教えられます。
- このことを知らない人が多いので伝えたいと思います。ブログで伝えたいと思います。「文字と霊」と題して、書いてみたいと思います。
☆与えられた導き
- 「文字と霊」と題して文章を書く