2021年7月21日
(内容)
- この世の神が信じようとしない人の心の目をくらまし、福音の光が見えないようにしている。福音に覆いのかかることがある。
(黙想)
- 3節。福音に覆いのかかることがあることをパウロは語る。滅びの道をたどる人々に対して福音に覆いがかかっているという。
- 「滅びの道をたどる人々」とは誰のことなのか。キリストを信じない人たちのことなのか。そうだとするとキリストを信じない人たちは、福音に覆いがかかっていて福音を知ることができない。彼らはこの世の神の影響を受けいていて(4節)、心の目がくらまされているからである。
- しかし、パウロはなぜキリストを信じない者について語るのか。この人々は、この世の神に心の目がくらまされていて、福音に覆いがかかって福音を知ることができない。彼らはキリストの栄光に関する福音の光が見えていないことになる。なぜわざわざキリストを信じない者について、語る必要があるのか疑問が生じる。
- そこで「滅びの道をたどる人々」は、ある種のキリスト者を指していると考えることができる。教会にはキリストを信じていても滅びの道を辿る人がいるとすれば、自分たちはそうならないように警戒する必要がある。だからパウロは手紙で福音に覆いがかかっていることについて言及していると考えることができるし、この方が自然である。
- イエス・キリストを信じると言っても、何を信じるかは人さまざまである。教会の中にも、パウロは滅びの道を辿る人がいると考えているのではないだろうか。それは福音がきちんと宣べ伝えられていないから生じることである。
- ガラテヤ教会には、割礼の必要を説く教師が現れて教会を混乱させた。パウロはガラテヤ書を書き、信仰によってのみ救われると教えた。キリストを宣べ伝えると称しても福音を語るとは限らない。覆いのために福音をきちんと理解できないままに間違った形で、あるいは不十分な形で福音を語る人もいる。そしてそれを信じる人がいる。
- 私たちだって、信仰のことをすべて分かった上で洗礼を受けたわけではない。洗礼は出発点であり、そこから信仰生活が始まる。そこから信仰のことを私たちは学ぶ。福音を学ぶのである。覆いのかかっていない福音を学んで、キリスト者として成長し、成熟していく。
- 4節。この世の神は、滅びの道を辿る人に対して、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにした。パウロはここで福音は、キリストの栄光に関する福音という。福音はキリストの栄光に関するものであるという表現を、僕はこれまで真剣に考えたことはない。福音は私たちの救いに関わるものであり、キリストの栄光に関するものであると考えたことはない。言い換えると僕の目は曇らされていたと言えるのかも知れない。
- 福音は、神の似姿であるキリストの栄光に関するもの。どういうことか。我々人間も神の似姿に造られている。我々は罪を犯し、神の似姿としての栄光は受けられなくなっている。しかしキリストは真の人であり、罪を犯していない。その意味では、まことの人間として神の栄光を映しだしていると言える。
- 「キリストの栄光に関する福音」。この福音の光が見えなくされているのが滅びの道を辿る人だという。「キリストの栄光に関する福音」とは、何なのか。
- 5節。パウロは、自分たちは「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えている」という。4節との関連はどうなのか。パウロから見れば、自分自身を宣べ伝える者がいるのである。どのような人のことを言っているのか。
- 目が覆われてキリストの栄光に関する福音の光が見えない人は、自分自身を宣べ伝えており、この福音の光が見える者はイエス・キリストを宣べ伝えることになるのか。自分自身を宣べ伝えるとは自分の考えを伝えることである。自分は福音を知っていると考えて語ること。福音はその全容を簡単には私たちに現さない。神の似姿であるキリストの栄光に関する福音である。私はこの福音を知っていると誰が言えるだろうか。自分は福音の一部しかまだ知らないとの謙遜な気持ちが必要である。常に福音とは何か、との問いを持って聖書を読むことが大切である。
- 6節。パウロ自身は、神から悟る光りを与えられた。イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光りを与えられた。イエス・キリストの御顔には神の栄光が輝いているのである。それは肉眼では見えない。心でそれを見ることを「悟る」とパウロは言う。パウロは神の導きで、悟った。
- パウロにとって復活したキリストとの出会いは決定的なできごとであった。パウロはそのことをガラテヤ書で書いている。
ガラテヤ1:15~16
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた。
- 神は御子をパウロに示したのである。パウロは「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音」を宣べ伝えるように召されたのである。パウロがキリストをどのように示されたのかは分からないが、パウロは生き方を変えられた。パウロの変えられた生き方を見れば、パウロがどのようにキリストを示されたのかが分かる。
- パウロがキリストについて示されたことの神学的な記述はロマ書に書かれている。ガラテヤ書にもある。パウロは自分の生き方をキリストに倣う生き方と語る(コリント一11:1)。パウロの具体的な生き方については、フィリピ書、コリント二4章に書かれている。
- 福音の全容を我々は知っていると考えてはならない。知っていると考えるとき、福音に覆いがかかることになる。覆いがかかった福音を伝えれば、聞く人はそれを聞くことになり、覆いのかかった福音を信じることになる。「福音=罪の赦し」と考える人が少なくない。この理解は、福音に覆いが掛けられている理解である。福音の全容を理解していない。
- キリスト者といえどもこの世の神に心の目がくらまされていることがある。というか信仰者になる前まではくらまされていたのである。信仰者になり、福音が何か知らされ、覆いのない福音を信じるようになり、心の目がきちんと見えるようになるのではないか。
- キリストが私たちに対して何をしてくださったのではなく、キリストに目を注ぐことが求められているように思う。キリストのみ顔には神の栄光が輝いているとパウロは語り、その輝きを悟る光りは神が与えてくださる。
- 福音は良い知らせであり、福音を宣べ伝えるとき、キリストによる救いは何かを語ることになる。しかしパウロは、福音はキリストに関するものであると語り、キリストに目を注ぐことを勧めているように思える。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を当ててくださる方
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>福音に覆いがかかることがある。覆いがかかると福音を正しく理解できなくなる。
- <教え>この世の神は、私たちの心の目をくらまし、その結果、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えなくなる。
(問い)
・イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光とは何か
・キリストの栄光に関する福音とは何か。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、福音について大切なことが書かれています。受けとめきれない内容が書かれています。私は福音とは救いを語るものであり、救いが何かを示すものと考えてきました。罪の赦しは福音であり、罪からの解放も福音であり、新生も福音です。
- パウロは福音について、キリストの栄光に関する福音と語ります。私たちに救いを与えてくださるイエス・キリスト。イエス・キリストがどのようにして救いを与えてくださったのか、パウロはそこにイエス・キリストの栄光があると考えているようです。イエス・キリストが与えてくださる救いがなんなのかを正確に理解することは大切です。でも同時にキリストはどのようにしてその救いを与えてくださったのか、キリストに注目することも大事なのですね。救われて生きることと、イエス・キリストを知ることは結びついているのだと思います。
- 今日の箇所は深く学ぶ必要があると思いました。福音として救いを与えるイエス・キリストはどのような方なのか。福音を信じる者の生き方は、イエス・キリストの生き方と無関係ではないのですね。
☆与えられた導き
- 繰り返しこの箇所を読み、味わう。
- 原語でも読む。