2021年10月11日
(内容)
- パウロのコリント教会を愛し、信頼する思いが書かれている。コリント教会を信頼するパウロの広い心が心に残る。
(黙想)
- テトスはパウロに遣わされてコリント教会に行った。コリント教会がパウロに対して不信感を持っていることをテトスは知っていた。そしてパウロはコリント教会宛に涙の手紙を書いた。この箇所を読むと、テトスがその手紙を携えていったのではなく、すでにコリント教会に送られていたようにも読み取れる。
- テトスがコリント教会に着いたとき、コリント教会は彼を、従順で恐れおののいて歓迎したとある。恐れおののきとあるので、コリント教会の人たちはすでに悔い改め、テトスがどんな態度を示すのは心配だったのかも知れない。そしてテトスは、教会とパウロの関係が回復したことを知り喜んだ。喜びの知らせを持ってパウロのもとに帰った。
- パウロはテトスをコリントに遣わす前にコリント教会のことを少し誇ったと書く(14節)。コリント教会はパウロの伝道によって誕生した。パウロはコリント教会は問題のある教会であることを知っている。第一の手紙で色々忠告を書いた。またコリント教会が自分に対して不信感を持っていることも知っている。それでもコリント教会を誇るという。
- なぜ、誇りに思うことができるのか。自分が福音を伝えてできた教会。その教会のその後の歩みはどこかあやしいというか、他の人に立派な教会だろうと誇ることができるような状態ではない。人間的に考えれば、誇りに思えるような教会ではない。しかしパウロは弟子のテトスに少し誇ったという。
- 誇るとはどういうことだろう。自分が何かを誇るとき、そこには結局自分を誇る思いがあるにちがいない。コリント教会を他の人に立派な教会だろうと誇る時、この教会は自分が伝道してできた教会であり、と自分の働きを誇ることがあるのではないか。コリント教会が問題のある状態になったとき、これを自分の伝道でできた教会と誇ることができるだろうか。おそらくできない。しかしパウロは誇る。それはコリント教会がキリストの教会だからであろう。キリストの教会は、問題があるのが常である。そしてキリストの教会にふさわしい教会になるための働きが行われる。問題があることは問題ではない。
- パウロは、コリント教会のことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みましたと書く。これはテトスがコリント教会を見て、コリント教会のことをどう思うか、である。テトスはまだ若いし、人間的な見方でコリント教会を判断することをパウロは予測している。「パウロ先生の働きでできた教会なのに、こんな教会になってしまって」とテトスが嘆くことがあるとしたら残念なことである。しかも「パウロ先生はこんな教会の誇りに思うなんてどうかしている」とテトスが考えるなら、自分は恥をかくことになるがそうならなくてよかったとパウロは語る。パウロに不信感を抱いた教会は悔い改め、パウロを慕うようになった(7:7)。教会は良い状態になったのである。
- それどころか、パウロがテトスに誇ったことが真実となったとパウロは書く。パウロの喜びがあふれ出てくる。そして16節で、「すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」。これは最大のほめ言葉でもある。
- 教会(員)は使徒に不信感を抱くことがあるかも知れないが、使徒パウロは、教会(員)を主の教会、主の教会に連なる枝としてとして誇り続ける。このパウロの態度はすばらしいと思う。そこには愛がある。愛がなければ、教会への不満、批判、非難が生まれてくるだろう。
- 神の愛は、人の行動の善し悪しで変わるものではない。むしろどんな悪しき者も愛していることを神はキリストの十字架で示された。パウロの愛は神の愛を証しする。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>キリストの教会を誇り、愛するパウロの姿勢。そして信頼する姿勢。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、聖書から、主の教会を誇り、愛するパウロの姿に驚くと同時に教えられるものがあります。私たちはどうしても自分の視点からものを見ます。自分にとって好ましい状態であれば喜び、そうでなければ批判します。しかしパウロは、神の視点に立っていると思います。
- 天の父なる神さま、私にもパウロのような愛を与えてください。そして広い心、受け入れる心で物事を見ることができるように導いてください。このような心で祈ることができるように導いてください。祈りの課題にそって祈る時、広い心で祈ることができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 広い心をもって祈る。