2023年4月28日
(内容)
- 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためだった。
(黙想)
- パウロは律法の実行によっては義とされないと語った。さらに律法によっては罪の自覚しか生じないと語った(3:20)。
ガラテヤ 3:19
では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの・・
- 人は律法を知る時、自分が神の戒めに違反したことを知る。つまり罪を自覚する。罪を自覚させるために律法はある。「付け加えられた」という表現は興味ある。律法は付け加えられたものであり、本来的に与えられたものというよりは、付属品という意味合いをパウロは込めている。
ガラテヤ 3:24
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
- ガラテヤ書で、律法は私たちをキリストのもとへ導く養育係であるとパウロは語る。律法により罪を自覚し、主イエスが罪の贖いのために死んだことを信じ、罪の贖いを求める時、罪の赦しを得、また神から義と認められる。律法は私たちをキリストに導くのが役目だとパウロは言う。
- 私たちは心のどこかで、神の教えを守ることが神の祝福を得る道だと考えているのではないか。申命記には、神の戒めを守る者は神の祝福を得、守らない者は呪われると明確に書かれている。この申命記の教えは、私の心に強く刻まれている。
- 律法は祝福を得る手段ではないことをきちんと理解することが必要だ。私たちが律法の意味を深く知り、これを行おうとすると罪の自覚が生じる。律法を行い祝福を得ようと努力する者は、罪を自覚させられる。罪を真剣に考えなければ、律法を祝福の手段と考え、律法を守っていると考える人が出てくるだろう。
- イエスはファリサイ派の人々を偽善者と批判した。ファリサイ派の人々は、律法を上辺だけ守り、律法の真の意図に生きていなかった。「あなたは殺してはならない」との十戒の戒めがある。文字通り殺人をしなければ、この戒めを守ったことになるのか。ファリサイ派の人たちは守ったことになるを考える。しかし主イエスは、「兄弟に向かってバカという者は、この戒めを守っていないと」とする。他人の命だけではなく、他者の人格を尊重することもこの戒めには含まれているのである。戒めを深い意味で実行しようとすれば、私たちは自分の罪を自覚させられる。そしてキリストへと導かれる。
・律法は祝福を得る手段ではない。
・律法により私たちは罪を自覚する。
・律法の役目は私たちをキリストのもとに導くこと。
- 律法を知る時、私たちの心にはそれに従いたくないとの思いが湧くことも確かである。罪が律法を利用して、私たちを律法に逆らわせる。アダムとエバは、とってはならないと戒めを受けたが、蛇との出会いにより、採って食べたくなり、食べてしまった。罪が律法を利用することを知ることも大切だ。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>律法が来たのは、罪が増し加わるために。つまり律法により私たちは罪を自覚する。罪を犯したと自覚するし、罪に誘われる自分を自覚する。律法は罪を自覚する私たちをキリストに導く働きを持つ。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝です。特に律法は罪を増し加えるためにこの世に入ってきたとパウロは語ります。律法をイスラエルの民に与えたのはあなたです。
- イスラエルの人々は、律法は祝福の手段と考え、律法を実践することに力を入れました。ファリサイ派や律法学者たちはその努力を行いましたが、主イエスは、彼らのことを偽善者と批判しました。
- 私たちはあなたの戒めを、その戒めに込めたあなたの真意を悟らず、表面的に守って、守った気持になります。それを主イエスは偽善と批判しました。
- 律法の機能は、私たちに罪を自覚させること、そしてキリストに導く養育係であることを深く心に留めたいと思いました。律法は神の祝福を得る手段ではないことを深く心に留めたいとも思いました。自分の中で、あいまいな部分があったことを思います。
- 律法について、聖書を読み、理解を深めたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 聖書を読み、律法について理解を深める。