ヨハネ福音書 8章12~20節

2019年10月1日

(内容)

  •  イエスは「私は世の光である」と人々の前に宣言された。しかしファリサイ派の人たちは、イエスは自分について証しをしている、それは真実ではないと否定した。

(黙想)

  • イエスはご自身が「世の光である」ことを宣言された。私が信じるイエスは、「世の光」なるお方である。世の光、これをどう受けとめるのか。1章には「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1:9)とある。詩編119に「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」とある。イエスは言が人となられたお方である。
  • 神の言葉は、私たちの歩みを導く光であるということ。「言の内に命があった」(1:4)とあるが、神の言葉に命があり、神の言葉が命なのである。信仰者は、神の言葉によって生きる者である。一人一人、どのようにして神の言葉によって生きるのかが課題。神の言葉によって生きているか否かの試金石は、自分は命を与えられて生きていると思えるかどうか、である。それは聖霊に導かれているか否かで、あり、聖霊の実、愛、喜び、平安の中を生きているかどうかにつながる。
  • イエスを信じない者としてファリサイ派の人々が登場する。ここでは、「世の光である」とのイエスの証言は、自己証言であり真実でないと批判する。確かに人が自分は「無実である」と証言してもそれは真実とは限らない。だからイエスに対する批判は理屈としては通る。それに対して二人が行い証しは真実であるとの、旧約聖書にある言葉を用いてイエスは反論する。二人目の証言者、それはイエスによれば、「父」である。
  • イエスが父なる神から遣わされた者であるか否か、それがいつも論争の焦点となっている。この論争は簡単には決着がつかない。信仰が問われるから。ファリサイ派の人々には、神は唯一であるとの神理解がある。これは旧約聖書が語るところでもある。それは正しい。そこにイエスが現れ、自分は神であるかのように語るので、ファリサイ派の人々にはイエスは受け入れられないのである。
  • ここで私たちは考えるべきことがある。それは自分の信仰理解を絶対化してよいのかということ。
「しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです」(コリント一2:9)。
  • 神は人間の思いを越えることをなさる方であり、この点で、ファリサイ派の人たちは謙虚さに欠けている。私たちは聖書によっていつも自己批判をする必要がある。それによって福音を正しく知ることができる。
  • イエスは奇跡を行った。それはイエスが父なる神から遣わされたしるしである。その奇跡を見て人はどう判断するのか。イエスの教えは、人々を驚かせた。イエスの教えと奇跡、これに直面してイエスを誰というか、人は信仰が問われる。ファリサイ派の人たちは、自分の信仰理解に固くとどまり、イエスを信じることができなかった。
  • 聖霊について、一つの神学的立場に立ち考える人が少なくない。どの立場に立つ人も聖書をもとにしていると主張する。もし自分が自分の立場に固執するなら、それは謙遜さに欠けるといえる。ファリサイ派は反面教師でもある。
  • 「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っている」(14節)とイエスは言う。また「わたしは一人ではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいる」とも語る表現は色々だが、イエスと父なる神は一つであることを語っている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエスは「世の光」なるお方である。
  • (御子)イエスは、父なる神と一つである。「わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」と言われた。父を知らないからイエスを信じることができない。
☆神が求める私たちの生き方
  • (約束)イエスに従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。
  • (警告)自分の信仰の吟味の大切さ。ファリサイ派の人々は神を信じていると主張する。イエスは神を信じるいるなら私を信じるはずだという。イエスの言葉が正しいとするなら、ファリサイ派の人たちは神を信じているつもり、なのである。私たちは神を信じているつもりなのか、真に信じているのか。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、信仰を持つ以前の私は暗闇の中を歩いていました。死の恐れ、空しさの中にいました。イエス様を信じ、光の中を歩くことができるようになりました。またあなたの言葉を命の言葉として慕い求め、あなたのみ言葉に生きることができるようになり、感謝です。
  • 今日の聖書を読んで、ファリサイ派の人々を反面教師にしなければならないと思いました。自分の信仰理解、自分の信仰的立場を絶対化してはならず、神さまに対して、心を開いているべきだと教えられました。
  • 今の私には、気になる聖書の言葉があります。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)。これは聖霊による洗礼を指しています。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:5)。私は聖霊による洗礼は、水の洗礼を受けたときに同時に起きていると教えられました。本当にそうなのか、との思いがずっとあります。本当なら、教会の伝道はもっと盛んになっているはずです。
  • ある時から、私は力を与えられ、確信をもって説教の働きができるようになりました。その時、聖霊が下ったと感じたわけではなく、聖霊が下さったのかも知れないと考えたこともありませんでした。この事について、あなたの導きをいただきたく思います。聖書の言葉の真の意味を知りたいです。
☆与えられた導き
  • 聖書の言葉の真の意味を教えてくださいと祈る。

この記事を書いた人