2019年7月19日
(内容)
- イエスは、ご自分が神から裁きを行う権能を与えられていることを語る。ご自分の裁きは正しいとも語られる。
(黙想)
- この段落で裁きについて教えられることは二つある。
- 一つは、イエスは裁きを行う権能を与えられており、裁きに関し、父は子に一切をゆだねているということ。
- もう一つは、将来における裁きについて。時が来ると、人々は復活して墓の中から出てきて、善を行った人は命を受け、悪を行った人は裁きを受ける。
- ヨハネ福音書は3章16節以下では、イエスを信じる者は命を受け、信じない者は既に裁かれているとある。現在における裁きである。信じる者は今、命を受け、信じない者は今、裁かれている。光よりも闇を好み、光の方に行かない、そのこと自体が裁きを受けた状態だという。
- 人は命を受けるか、裁きを受けるか、どちらかの道を歩む。今も、そして将来(終末後)も。
- いつイエスは裁きの権能を行使するのだろうか。一つは今。イエスは語る言葉によって、その行動によってご自身が神の御子であることを示す。このイエスに対して人がどういう態度を取るか、それが命を受けるか裁きを受けるかの分岐点となる。イエスは裁判官ではないが、ご自身を一つの基準として差し出す。イエスに対する態度よって人々の運命は変わる。イエスはご自身を裁きの基準として示すことによって、裁きの権能を行使している。
- 今ひとつは終末における裁き。その時はイエスは、裁判官として権能を行使される。
- 人は自分の生き方を吟味することができる。命を受けている人の生き方か、それとも裁きを受けている人の生き方か。イエスを信じているか否かではなく、もし信じているなら、命を受けている生き方をしているか否か。名前だけの信仰者になるのではなく、名実共に命を受けた人の歩みをしているかどうか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)22,27節。父なる神は、御子に裁きの権能を与え、裁きについて一切を任せる方。
- (御子)27節。裁きの権能を与えられ、裁きを行う方。
- (御子)ご自分を神の御子として人々に提示することによって、裁きの権能を行使している。イエスを信じる人は命を受け、信じない人は裁きをうける。裁きを受けるといってもイエスを信じないことによってその結果を自分に招く。それが裁きになっている。
- (御子)28節。終末の時、イエスは裁判官として人々を裁く。復活するのはすべての人であり、復活してイエスの前に出る。
- (御子)30節。イエスは自分の意志ではなく、自分を遣わした方の御心を行う方。
☆神が私たちに求める生き方
- (勧め)自分の生き方を吟味する。命を受けた者としての歩みをしているか否か。
- (模範)30節。イエスは自分の意志ではなく、自分を遣わした方の御心を行う方。これは模範。私たちも神さまの御心を行って生きる者。
- (約束)25節。イエスの言葉を聞く者は生きる。
- (勧め)自分は命を受けている者として歩んでいるのか否かの自己吟味の必要。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様の言葉を聞いて、イエス様に対してどのような態度を取るのかが問われます。信じる者は命を得、信じない者は裁かれています。命を得ることがないからです。今イエス様を信じ、命を与えられて生きる者は終わりの時の裁きにおいても命を受け、裁かれることはありません。
- 私はイエス様を信じ、命を与えられました。信じる前の私は自分の思いで生きてきました。しかし今は、神さまの言葉によって歩んでいます。神さまの言葉、すなわち命の言葉に導かれて生きています。ですから、私は命を受けていると確信します。あなたの言葉を知らないときは、何が本当で真理なのか分からず、自分の思いで生きてきました。それは迷いの中にある歩みでした。自分が命へと導かれたことは本当に感謝です。
- しかし、命に導かれていない多くの人たちがいることを思います。人々はなかなか教会に来ようともしないこともまた事実です。イエス様を信じることがどういうことなのか、なかなか伝えることができていないのですね。教会の礼拝に来ている求道者がなかなか洗礼を受けないとしたら、それはどういうことでしょうか。信仰のことを伝えることができていないということでしょうか。求道者が導かれるようにと祈っていますが、なかなか受洗に至らない現実もあります。罪の自覚がなければ洗礼へは導かれませんね。
- 今洗礼に導かれるように祈っている人たちを覚えて、あなたが導いてくださるように祈ることにします。この事のために一週間毎日時間をとって祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- 求道者を覚えて、一週間、時間をとって祈る。