2019年8月2日
(内容)
- イエスは御自分を信じないユダヤ人たちに、モーセを信じているなら私を信じるはずだと話した。モーセはわたしについて書いているからと理由を述べた。
(黙想)
- イエスは、モーセは私について書いていると語られた。だからモーセを信じたのであれば、私をも信じたはずだと語り、イエスを信じないユダヤ人を批判された。旧約聖書を読めば、モーセが直接イエスのことを語っている箇所はないと思う。モーセのメシア預言と言われる言葉がある。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(申命記18:15)。でもこれを読んだからといって、イエスのことを知ることにはならないと思う。ではイエスは、なぜモーセは私のことを書いたと言われたのだろうか。
- モーセの歩みを考えてみると、色んな出来事が彼の身に起きている。思い起こされるのは彼の苦悩である。彼の苦悩の原因はイスラエルの民の不信仰にある。モーセは神から与えられた十戒を民に伝えた。第二戒は、いかなる像も造ってはならない、であった。しかしモーセがシナイ山に登り、神からさらなる戒めを受けているとき、イスラエルの民はシナイ山の麓で金の子牛の像を造った。これに対して神は怒った。その時モーセは神の前に執り成しをしている(出エジプト記32章)。
- つまり、ここでイスラエルの民を滅ぼしたら、エジプト人は「あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した」と言うにちがいない。神はイスラエルの民を滅ぼすためにエジプトから導き出したというにちがいない。それでいいのですか、と神をなだめている。
- さらにモーセは民の前で「あなたがたのためにあがないをすることができるかも知れない」と言って、再び山に登り、神に対して語る。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」。
- モーセは自分の命に代えてもイスラエルの民の罪に対する神の怒りから、イスラエルの民を救おうとしている。このようなモーセの姿は十字架のイエスを指し示していると言えるのではないか。
- モーセを信じるとは、十戒や律法などの神の掟を重んじるというより、神の前に執り成しをするモーセの姿を目を留めることではないか。神は人を生かす神であるが、罪を嫌い、罪に対しては怒りを燃やされる神である。しかし同時に神は、人間の罪を赦し、罪から救おうとされる神でもある。イスラエルの歴史は罪を犯し、罪を赦される歴史でもある。
- イエスはその十字架の死と復活により、私たちの罪を赦しと罪からの解放を与えてくださった。イエスはモーセは私について書いているという時、このモーセの執り成しについて言及しているのではないか。モーセを信じるとは、このような罪の執り成しをするモーセの姿を心に留めるということではないか。
- この段落の直前の39節でイエスは語っている。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。イエスを読み取る、それが旧約聖書を読むということではないか。モーセが書いたことを通して民を救おうとする神の御心を知ることが大切とイエスは言われたのではないか。神の御心を尋ね求める者は、イエスを信じるはずだと。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)御子は、モーセによってその救いについて指し示されている。罪の罪を神の前に執り成し、自分の命に代えても罪の赦しを得ようとする救い主の姿。
☆神が求める私たちの生き方
- (教え)民がイスラエルの民を救われた出来事の中にイエスによる救いの原型が示されている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、「モーセはわたしについて書いている」とイエス様はおっしゃいました。またイエス様は「聖書はわたしについて証しをしている」とも語られました。旧約聖書は、救い主であるイエス様のことを指し示しているということだと思います。
- 出エジプト記の32章の記述は、民の罪を執り成す救い主を描いています。イエス様は、執り成すだけでなく、自らの命を犠牲にし、自らを罪の贖いの供え物となさいました。またイエス様は「わたしは真理」であり、「真理はあなたがたを自由にする」とも語られました。モーセは神に導かれつつ民を引き連れ、自由に生きることのできる土地へ向かいました。出エジプトの出来事は、民を救う神、民の罪を怒りつつも民を赦す神を描き、民を自由に生きることのできる土地へ導く神を描いています。そしてイエス様も私たちの罪を赦すと同時に罪からの自由へと私たちを導かれることを思います。
- 天の父、福音というとそれは罪の赦しであると理解され、罪からの解放、罪からの自由があまり語られていない現実を思います。私たちは完全に罪から解放されるわけではありませんが、罪の支配から解放され、罪と戦う信仰の歩みがあることはあまり語られません。このことが前提での信仰者の歩みなのに、この前提が語られず、信仰者の歩みが語られるので、結局律法主義的な説教に陥ってしまいます。それがとても残念です。福音が余すところなく語られていないのです。
- 私にできることは、祈ることですね。罪との戦いを語るヘブライ人への手紙12章を黙想したいと思います。機会が与えられたら説教したいと思います。
☆与えられた導き
- 私たちを自由にする福音が宣べ伝えられるように祈る。
- ヘブル書12章を黙想する。