2019年7月31日
(内容)
- イエスは御自分を信じないユダヤ人たちに、神への愛がない、神からの誉れを求めず人からの誉れを求めている、と批判し、モーセを信じているなら私を信じるはずだとも話した。イエスを信じない人の特徴が語られている。
(黙想)
- イエスはユダヤ人たちがイエスを信じることができない理由を語られる。
- ユダヤ人たちは神への愛がないのでイエスを信じない。唯一の神からの誉れを求めず人からの誉れを求めているのでイエスを信じることができない。さらにモーセを信じたのなら、私を信じたはずだと語る。モーセはイエスについて語っているから、という。
- イエスを信じる私たちは、神への愛をもっているのだろうか。神からの誉れを求めているのだろうか。こんな問いを自分に向けることができる。信仰者は成長し、神への愛に生きるようになり、人からの誉れよりも神からの誉れを求めるようになる。自分は果たしてキリスト者として成長しているのか。
- イエスを信じる者は神への愛を持つ。どうしてそうなるのか。イエスを信じるなら神からの誉れを求めるようになるのはなぜか。そしてモーセはイエスについて書いているとイエスは言うが、モーセはイエスについてどのように語っているのか。
- イエスを信じると言っても、色々な信じかたがある。しかし聖書は、イエスを信じるとはどのように信じることかを教えていると思う。今日の聖書によれば神を愛し、神からの誉れを求めるように信じるのである。モーセの書いたものを読むとき、そこにイエスを読むのである。
- 以上のことは神との交わりに生きる、神との交わりを第一にして生きることと言い換えることができるのではないか。神との交わりは人格的な交わり。神は私たちの心を大切にしてくださる。言い換えれば私たちを愛してくださる。神を愛するとは、神の心を大切にすることである。もし私たちが人からの誉れを受けるとしたら、それは自分を偶像にしていることになるのではないか。神こそほめたたえられるべき方なのだから。自分が誉れを受けるのではなく、自分を通して神が誉れを受けることが大切である。
- 私たちは人格的な交わりに生きる訓練として、色々な人間関係の中におかれている。身近な伴侶との関係、親子の関係において、人格的な関係、人格的な交わりをもって生きているのだろうか。
- そして神さまのために働くことには誘惑が伴う。自分はよくやっているとの思いは、人に認められたいとの思い、人からの誉れを受ける思いに容易に結びつく。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)41節。人からの誉れは受けない方。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)イエスを信じる者は神を愛する。
- (教え)イエスを信じる者は神からの誉れを求める。
- (教え)旧約聖書を読むとき(新約聖書を読むときもそうである)、神の御心を知ることが大切である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私はイエス様を信じるように導かれたことを感謝します。信じない者ではなく、信じる者とされたことを感謝します。今日の聖書を読んで、人からの誉れではなく、唯一の神からの誉れを求めるべきことを教えられました。人からの誉れは目に見えます。耳で聞くことができます。でもあなたからの誉れは、感じとることはできません。終末の時「よくやった、忠実な僕よ」とあなたから言われるまで、あなたからの誉れを忍耐して待ち望むことが大切なのでしょうか。それともあなたからの誉れを受けているしるしがあるのでしょうか。
- 人からの誉れを求める思いは、私たち人間の心にこびりついているように思います。自分がそうであることを私は知っています。この思いが湧いてくると心は穏やかでなくなります。
- ですから今日は、人からの誉れを求める思いから、私を清めてくださるようにあなたに祈り求めることとしました。日々、祈りたいと思いました。どうぞ私を清めてください。
どうぞ聖霊の導きを受けて、清めてください。そして今日は「主われを愛す」と賛美します。
わが君イエスよ、われをきよめて
よきはたらきを なさしめたまえ
わが主イエス、わが主イエス
わが主イエス、われをあいす
☆与えられた導き
- 私を清めてくださいと祈る。
- 主われを愛す、で神を賛美する。