2020年10月21日
(内容)
- 神に召されたときの身分のままでいなさいと勧める。割礼を受けた者は割礼の跡を消す必要はなく、割礼を受けていない者は割礼を受ける必要はない。奴隷の人はそのままでいなさい。
(黙想)
- パウロはここで、何が一番大切なのかを語っている。割礼を受けていない異邦人が割礼を受けたり、割礼を受けている者が割礼の跡を消したりすることは気にしないでよい。ガラテヤ教会には、異邦人は割礼を受けるべきと教える教師がいて、教会は混乱した。パウロは大切なのは心の割礼であるとも教えた。大切なことは割礼の有無ではなく、神の掟を守ることである。
- 身分として奴隷の人はあえて自由人になる必要はなく、そのままでいなさいと教える。理由として、キリストを信じた人は自由にされたからと教える。真の自由はキリストによる自由であり、信仰がなければ身分として奴隷であろうと自由人であろうと、心は不自由である。それがパウロの教え。大事なのは、キリストによる自由を得ること。
- しかも私たちは、買い取られた者であり、キリストの奴隷である。キリストによる贖いは、罪の赦しのための贖いでもあるが、贖いには、別の意味がある。ある人が借金を返すことができずに奴隷となった場合、親族が代わりに借金を返済し、彼を買い戻すことができる。買い戻すことを贖うという。キリスト者はキリストの贖いによって悪魔という主人から買い戻されてキリストを主人とするようになったのである。身分として自由な人は、キリストの奴隷という身分を持つ。
- 「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」。現代の日本人には、割礼も奴隷制も無関係である。この聖書箇所をどう受けとめるか。思い浮かんだのは、自分のありのままを受け入れるということ。神は一人一人に個性を与えられている。自分の個性を嫌う必要はない。大事なのは、神の掟を守ることであり、キリストの奴隷とされていることである。
- パウロはこの手紙の中で、キリスト者とは何かを教えているように思える。3章では、コリントの人たちが霊の人ではなく肉の人であると告げる。肉の人とはキリストとの関係では乳飲み子である。キリストとの関係で成長した人、それが霊の人であり、キリスト者は霊の人になることを目指す。同じ3章で、キリスト者は神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知るべきであると書かれている。さらにキリスト者は、キリストのもの、神のものである。6章では、聖なる者、義とされていることが教えられる。また自分が聖霊の宿る神殿であることも教えられる。
- ありのままの自分を受け入れつつ、キリスト者としての実質を身につけていくことが大切と教えられる。キリスト者は勿論、神の掟を守り、キリストに仕える者である。
- 神の前にとどまる。どういうことか。神の御前に生きる者であり続ける。神の御前に生きる者であることを意識する。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
☆神が求める私たちの生き方
- <教え>召されたときの身分に留まること。キリスト者には現実の身分よりももっと大切なことがある。
- <教え>神の前に留まること。神の御前に生きる者であることを意識する。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、パウロは、コリント教会の信仰者たちに、各々召されたときの身分のまま、神の前にとどまりなさいと教えました。この身分を「ありのままの自分」と考えます。私たちはあなたによって個性を与えられています。召されたときの身分にとどまるとは、言い換えると、自分の個性を受け入れることと考えました。個性あるひとりの人間として、御前に生きることが大切と教えられました。私たちにとって生きるとは、キリスト者として生きることですね。
- 私は70歳を超えた老人です。これもまた私の個性です。そしてキリスト者として、死を越える希望に生きる者です。奈良高畑教会が毎年発行している『羊群』という小雑誌があります。毎年寄稿しています。証しの文章を書いています。年老いた者としてしかも、神の前に生きる者として、どのような希望に立って生きているのかを書く予定でした。原稿に着手したいと思いました。号令をかけていただき感謝します。
☆与えられた導き
- 原稿に着手する