マルコ福音書 2章13~17節 イエスは招く方

2021年8月3日

(内容)

  • イエスは徴税人のレビに「わたしに従ってきなさい」と招いた。彼はイエスに従い、イエスを自宅に招き食事を共にした。律法学者がイエスのことを責めた。

(黙想)

  • イエスは招かれる方である。徴税人のレビを見たとき、「わたしに従いなさい」と招いた。レビは招きに答え、イエスに従った。また17節でも「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語られた。イエスは招く方であり、招きに応じるか否か、神さまは私たちに選択の自由を与えている。
  • イエスは通りすがりに徴税人のレビが座っているのを見て声をかけた。レビが招かれたのは偶然である。恵みの招きと言える。
  • ファリサイ派の律法学者はイエスがレビの家で、罪人や徴税人と一緒に食事をしているのを見て、イエスの弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」と言った。律法学者たちは徴税人のことを異邦人であるローマ人と関わりを持ち、汚れた者であると見なしていた。律法学者たちは律法を守ろうとしない人たちを罪人と見なしていた。そして律法学者たちは徴税人や罪人たちとは関わりを持とうとはしなかった。現代的に言えば、差別をして、関わりを持とうとしなかったのである。律法学者たちは、自分たちは神の律法を守る正しい者であるという自己理解を持っていた。
  • イエスは、そのような差別をすることなく、誰とも関わった。食事の席を共にし、一緒に食事をした。
  • イエスは「なぜ、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問われて答えた。まず「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」。この言葉はよく分かる。人は自分が病気であることが分かれば、医者の所に行く。丈夫で元気なときには、人は医者のところへは行かない。人は自分が何を必要としているのか分かっている。
  • イエスは続けて「わたしを必要とするのは正しい人ではなく、罪人である」とは言わなかった。なぜか。病人は自分が何を必要としているか分かる。医者である。医者は自分の病気を治してくれるから。しかし、自分はイエスを必要としていると考える人は、一人もいない。イエスがどんな人か分からないから。だからイエスの方から私たちを招くのである。招きに応じるのが信仰である。
  • 「わたしに従いなさい」と言われてすぐにレビがイエスに従ったのは不思議である。イエスについて何か知っていたのかも知れない。レビの存在は、招きに答えるのが信仰であることを示している。
  • そしてイエスは偏見をもって人を見ることがなく、すべての人を招いている。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とのイエスの言葉は、すべての人が罪人であり、すべての人が招かれているということである。神の前に正しい人はいない。
  • 律法学者たちは、自分は正しい者を考えているが、神の前にはそれは間違いである。彼らもまた罪人としてイエスに招かれている。でも彼らは招きに応じようとはしない。
  • 招きに応答する場合、何に招かれているのかを知ることは大切である。基本的には、神の約束を信じるように私たちは招かれている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは私たちを招く方である。福音を信じ、神の国に生きるように招く方である。
  • <御子>イエスは、人間に対して偏見を抱くことなく、すべての人を招いている。差別はしない。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>招きの内容を理解し、招きに応じること。
  • <罪>何らかの基準をもって人を差別すること。他者を罪人扱いをすること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書を通し、面白いことに気がつきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」とありました。人は自分が必要とするのが誰かを知り、その人のもとに行きます。イエス様は「わたしを必要とするのは正しい人ではなく、罪人である」とは語りませんでした。私たちは自分がイエス様を必要としていることに気がつかないし、理解できません。だからイエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とお語りになりました。イエス様は招くお方なのですね。イエス様の招きを聞いて、応じるか否か、それは私たちが決めます。招きに応じること、それが信仰なのですね。
  • 徴税人のレビは「わたしに従いなさい」とのイエス様の声を聞き、従いました。彼はイエス様の招きに答えた人物でした。招きに答えるのが信仰であると教えられ、感謝です。
  • またイエス様は人を分け隔てなさらず、誰をも招かれます。律法学者たちは自分が正しくあることだけを求めていたことを知ります。信仰に熱心かもしれませんが、隣人愛はありません。自己中心的です。信仰が自分を誇る手段になるのですね。自分は何を誇りとしているのか、自己を吟味する必要がありますね。
  • 今日は、イエス様は招く方であることに心が留まりました。8月には説教奉仕が与えられているので、私たちは信じるように招かれていることを伝えたいと思いました。説教準備を導いてください。
☆与えられた導き
  • 私たちは信じるように招かれていることを伝えたい

 

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