マルコ福音書 3章1~6節 安息日の戒めを与える神の御心

2021年8月24日

(内容)

  • イエスは安息日に会堂にいた片手の萎えた人を癒やされた。イエスを訴える口実を見つけようとしている人にイエスは気づき、イエスは彼らをさとされた。しかしファリサイ派の人たちはイエスを殺そうと相談を始めた。

(黙想)

  • 安息日には病人を癒やしてはいけないとファリサイ派の人々は考えていた。病人を癒やすことは労働であり、労働は安息日の戒めに反するとの理解である。イエスはこれに対して、安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことかと逆に問いかけた。
  • 悪は、安息日に限らず、どんな時も行ってはならない。善は、安息日に限らず、いつ行ってもよい。こちらの方がもっと大きな原則である。イエスは安息日に律法で許されているのは、命を救うことか、殺すことか、と逆に問いかける。殺すことは、安息日に限らず、どんな時も行ってはならない。命を救うことは、安息日に限らず、いつ行ってもよい。イエスは大きな原則を掲げて、ファリサイ派たちの安息日遵守の態度が歪んでいることを語る。
  • 律法は神さまが命じたものである。その律法には神さまのどんな思いが込められているのかを知ることが大切である。これを知らなければ、律法をただ形式的に文字通りに守ることになる。これは神の御心を行うことにはならない。
  • ファリサイ派の人たちはイエスの問いかけに答えなかった。彼らがイエスの問いかけをどう受けとめたのかは分からない。自分たちの論理とイエスの語る論理とどちらが真理なのか。人は簡単には自分の信念を変えることができない。長年受け入れてきた信念であれば、簡単には変えることはできない。ファリサイ派の人たちにはイエスは危険人物に思えたであろう。自分の信念を揺るがそうとするのであるから、見逃しにはできない。律法違反という口実でイエスを殺そうと相談を始めた。
  • 自分の信念、自分の存在を揺るがそうとするようなものと出会ったとき、簡単に切り捨ててはいけない。そこに真理を見出せるなら、自分を変える勇気を持たなくてはならない。イエスは頑なな心を悲しまれるお方である。
  • 私たちは福音について心を開いている必要がある。これが福音であると自分が信じているものに対して、別のことが福音として語られた場合、注意しなければならない。退けるのは簡単である。しかし真理を見失うことになる危険もある。
  • 罪の赦しこそ福音であると考える傾向が強いと感じている。イエスは罪からの救い主であり、罪に対して勝利して歩む道を開かれている。そのことがなかなか語られないし、受け入れてもらえない。何か理想を語っているように思われるのだろうか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>人々の頑なな心を悲しまれるお方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>律法を語る神さまの御心に心を向けること。律法を文字通りに受け取るだけでなく、そこにどんな神さまの思いが込められているかを考えること。そうしないと形式的に律法を守っても、神の御心を行っていることにはならない。
  • <勧め>神の御心に対して心を開くこと

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。律法に込められたあなたの思いを受けとめることの大切さを知ります。形式的に律法を守るのではなく、律法に込められたあなたの思いを知ることの大切さを知ります。私たちも日曜日、礼拝に出席していれば、安息日の戒めを守っていると考えてしまうかもしれません。
  • 今日は、あらためて、安息日の戒めを与えられた神さまの御心に思いを馳せたいと思いました。神さまのどんな御心がこの戒めに込められているのか、探ることにします。
☆与えられた導き
  • 安息日の戒めに込められた神さまの思いを探る

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  • 十戒には「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とある。聖とするとは、特別な日にせよとの意味である。労働をしないことによって、安息日を特別な日にすることになる。労働する日々と区別するのである。
  • 神さまの戒めには、どんな神さまの御心があるのかを考えることが大切だ。それでは安息日を聖とするとの戒めにはどんな神さまの御心があるのか。
  • 安息日の戒めは出エジプト記の十戒(20章)と申命記の十戒(5章)では、この戒めを守る理由に違いがある。
  • 申命記では、エジプトにおける奴隷状態から神さまが救い出してくださったことを覚えて安息日を聖としなさいとある。キリスト教的に言えば、イエス・キリストによって、私たちが罪と死の支配から自由にされたことを覚えるのである。それなら安息日に神さまに礼拝を献げることが神の御心であると考えるのが自然である。礼拝で福音を聞くのは安息日にふさわしい過ごし方である。
  • 出エジプト記では、神さまは6日間で世界を創造し、7日目は休まれたとある。私たちも6日の間仕事をし、7日目を仕事から離れて安息する特別な日にしなさいとの意味になる。7日目は仕事をせず、感謝して喜んで一日を過ごし、仕事をする日々に備えることができれば、神さまの御心にかなうのではないか。休みの日を楽しく有意義に過ごすことは神さまの御心であると考える。
  • 病気で苦しんでいる人がいるなら、もちろん、癒やすこと、助けることは問題ない。人を助けることは大切なことである。

 

 

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