2023年3月8日
(内容)
- パウロは、主イエス・キリストによって神を誇りにしていると語る。
(黙想)
- パウロは5章に入って、信仰によって義とされたことを踏まえ、義とされたことがもたらす事柄を語った。つまり信仰によって義とされた者について次のことを語る。
・神との間に平和を得ている
・今の恵みに導き入れられている
・神の栄光にあずかる希望を誇りにしている。
・そればかりでなく苦難も誇りにしている。
- さらにパウロは、キリスト者の心には神さまに愛されているとの思いが聖霊によって与えられていると書く。神に愛されていることが、希望や誇りの根拠となっている。
- 6~8節では、神はどのように私たちを愛したのかを明らかにする。
- 9~10節では、罪人であった私たちがキリストのゆえに救われたのなら、私たちが将来、神の審判を受ける時も、救われるのはなおさら確かであると語る。
- 11節でパウロは、「そればかりでなく」、私たちは神を誇ると書く。キリストによって神と和解させていただいたので、神を誇るという。神はその愛により、罪人であった者をキリストの血により義とした。それだけでなく、義とした者と和解し、交わりへと招いてくださった。最後の審判で救いに入れられることは確かである。このようにキリスト者を愛する神を、キリスト者は誇るとパウロは書く。
- 神の愛により救われたことを知るキリスト者は神を誇る。口語訳聖書では、「神を喜ぶ」と訳されている。この誇り、喜びは、キリスト者だけが抱くもの、神の恵みとして与えられるものである。
- あらためて、義とされることの重要性に気づく。義とされることは罪が赦されることだけを意味しない。義とされることが罪の赦しだけを意味するとしたら、苦難を誇ることができるだろうか。希望を持つことができるだろうか。さらに神を喜び、誇りとするだろうか。
- 義とされることに、私たちの最終的な救いは確かであることを意味する。それだけではなく、キリスト者を生かす恵みがある。罪の奴隷状態からの解放も恵みの一つである。
- このパウロの誇りは、キリストの十字架を誇る誇りにつながる(ガラテヤ6:14)。
- 自分は神を誇りとしているのか。どのように誇りとしているのか。誇りにしていないとしたら、なぜか。キリストによる救いの恵みを自分はどのように考えているのか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>キリストを通して、私たちと和解してくださる方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神を誇ること。神を喜ぶこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、パウロはあなたを誇ると語ります。この手紙の1章16節でパウロは、私は福音を恥としないと語りました。彼は福音を誇りとします。そしてここではあなたを誇ると書きます。救いに導かれ、キリスト者として生き、あなたとの交わりに生きることをパウロは喜びとし、あなたを誇ると告白します。
- 人は何を誇りにして生きるのがよいのでしょうか。誇る者は主を誇れとパウロは書いています。私自身は普段の生活で、自分が何を誇りにしているのかを意識することは少なかったと思います。またパウロがあなたを誇りとすること語ることに対して共感する思いはあります。あなたとの間に平和を与えられて日々歩む幸いはあなたの救いの恵みです。ですから、私もあなたを誇りにしていると意識したいと思いました。誇るというギリシャ語は喜ぶとも訳すことができ、私としてはあなたを喜ぶというほうが心に素直な気がします。
- この心境にイエス・キリストによって導かれていることを感謝します。なおパウロはガラテヤ書でキリストの十字架を誇ると書いています。私もキリストの十字架を誇ると告白したいと考えています。このことを言葉を持って告白できるように導いてください。
☆与えられた導き
- キリストの十字架を誇る者となるように導きを祈る