2026年3月27日
(内容)
- イエスの行動を安息日の戒めを破っていると批判するファリサイ派の人たちの前でイエスは水腫の人を癒やし、ファリサイ派の人たちに挑戦的な発言をする。
(黙想)
- イエスは安息日に食事のためにファリサイ派の議員の家に入った。どのような経緯があったのかは不明。そこに水腫の人がいた。するとイエスは、安息日に病人を癒やすことは律法で許されているか、いないかとファリサイ派や律法の専門家たちに問うた。イエスは積極的である。
- イエスが安息日に病人を癒やし、ファリサイ派や律法の専門家がイエスを批判する場合は、
- ①イエスが病人を見つける。
- ②イエスが病人を癒やす。
- ③ファリサイ派の人たちは、イエスは安息日の律法を破ったと批判するという順である。
- ここではまずイエスが問いかける。安息日に病人を癒やすのは律法で許されているのか、と。この場面ではファリサイ派や律法の専門家は黙っていた。そこでイエスは水腫の人を癒やした。イエスはさらに語る。「あなたたちの中に、自分の息子か、牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と。
- ファリサイ派や律法学者たちが律法を守ろうとするのはよい。あくまでも律法は神が与えたものであり、神の御心がどこにあるかを考えず、文字通りに守るのはおかしいことをイエスは批判する。イエスの行動を安息日の戒めを破っていると批判するが、自分の息子が井戸に落ちたら、どうするのか。救い出すことは安息日の戒めを破るからと言って、翌日になるまで放っておくのか。そんなことはしない。戒めを守るのはよいが、その戒めを与えた神の御心がどこにあるのかを知らずして、戒めを守るのは問題がある。
- ファリサイ派や律法の専門家たちは、イエスを批判することにより、神が送った救い主を受け入れることができなくなっている。今日のこの箇所では、イエスの方から、安息日に病人を癒やすのは律法で許されているのかどうか、と問いかけ、ファリサイ派や律法の専門家たちのかたくなな態度を咎めているように思える。自分の問題点や過ちを謙遜に認めることは大切である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは、ファリサイ派や律法の専門家たちに彼らの律法理解を問い直すように求めた。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>イエスの問いかけにファリサイ派の人たちは答えなかった。彼らは自分たちの律法理解が問われていることを知ったが、答えるのを控えた。自分の間違いを認めなかった。それはいけない。
- <警告>律法の解釈も大切だが、人間の解釈は注意しないと、律法にこめられた神の御心を無視することになるかも知れない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、ファリサイ派や律法学者の人たちは、イエスから問われて、こたえることをためらいました。自己批判という言葉がありますが、自分の問題点を認め、改めることは簡単ではないと思います。簡単ではないとき、そこにプライドがあり、そのために自分の問題を認めることに抵抗するのではないかと思います。真っ直ぐに神さまに向かう心でないと、悔い改めがなかなかできないことを思います。
- そこで自分はどうなのか、です。改めるべき点があるのにそれを認めず、改めないことがあるのでしょうか。デボーションをし、聖書が語ることを自分に照らし合わせて自分のあり方を吟味しますが、今特に改める点は思い浮かびません。気づかないだけのことかもしれませんが。
- 今日は、適用はなし、としてディボーションを終わります。
☆与えられた導き
- 特になし