ルカ福音書 22章7~13節

2019年3月18日

(内容)

  • イエス様は弟子たちに過越の準備をさせたことが書かれている。

(黙想)

  • マタイ、マルコ福音書では、弟子たちがイエス様に「どこに過越の食事をする用意をしましょうか」と尋ねている。しかしルカ福音書では、イエス様が弟子たちに過越の食事の用意をするように命じている。15節でイエス様は、弟子たちと共に過越の食事をすることを切に願っていたとあり、イエス様のその思いが、弟子たちに過越の準備をさせている。
  • 過越の食事をする家については、イエス様は不思議な命令をしている。「都に入ると水がめを運んでいる男に出会う。その人について行き、その人が入る家が過越の準備をする家である」。弟子たちは水がめを運んでいる人に出会うと、その後をつける。その人が入った家の主人に弟子たちは言う。「先生が、過越の食事をする部屋はどこか」と言っています。すると主人は、二階の広間を見せてくれたという。
  • 水がめを運んでいる人に会うか会わないか、会うとしても水がめを運ぶ人の仕える主人の家がどこにあるのか、それを予知することはできない。その家の主人は弟子たちが語ることを了解できたのだろうか。自分の家の広間を他人が過越の食事をするのに場所を提供することを予期できたのだろうか。あらかじめイエス様に頼まれていたのだろうか。マタイ福音書では、イエス様は「あの家に行って」と明確に指示している。この場合は、あらかじめ部屋を貸してもらえるように頼んでおくことはできる。
  • そのそも過越の食事とは何なのか。それはエジプトで奴隷であったイスラエルの民が、神の助けによって、奴隷から解放されたことを記念する食事である。一歳の小羊を屠ってその血を家の鴨居に塗り、その小羊の肉を食したのである。血が塗ってある家は通り過ぎ、血が塗っていない家では、最初に生まれた者が死ぬという災いが起きている。小羊の血による救い、神の救い、奴隷からの解放を覚えるのが過越の食事である。
  • イスラエルでは家ごとに過越の食事をし、子どもは「なぜ、この食事をするのですか」と父に問い、父が答える。ここには信仰の継承の意味もある。
  • 私たちは「聖餐」を祝い、イエス・キリストによる救いを記念し覚えている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)10節。イエス様は、過越の食事をする場所について、弟子たちに不思議な指示を与えた。あやふやな指示である。私たちが納得できるような合理的な指示ではない。
☆神が私たちに求める生き方
  • (模範)13節。二人の弟子、ペトロとヨハネは主イエスの指示に従った。模範である。水がめを運んだ人が入った家の主人は場所を提供してくれた。不思議と言えば不思議。しかしイエス様の言葉が実現している。時には理解できない神さまの命令も、神さまから命じられていると思ったら従うのがよい。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、あなたの言葉で、私たちが信じるには合理的に納得できないものがあります。現代人の感覚では、すぐには信じがたいものがあります。私にとって終末の事柄は合理的に納得のできるものではありません。もっとも、合理的だとして受け入れることができるなら、信仰の余地はありませんね。
  • イエス・キリストの十字架の死が、私たちの救いだということも、合理的なことではありません。十字架で磔で死んだ人が救い主だなんて、合理的な精神の持ち主には愚かに見えるに違いありません。結局私たちは、聖霊の導きにより、人間には愚かとさえ見える事柄を信じるのですね。信仰は神さまの賜物ですね。
  • 私は聖書が教えることには信仰的な合理性があると信じてきました。神さまが全能であるなら、死者の復活も信じるに支障はありません。さらにそこに意味が見出せれば信じることができます。しかし聖霊に導かれて信じることが大切であると思わされました。終末の事柄は、信じているようで信じていないような、信じていないようで信じているというあいまいなところがあります。今日は、信じることができるように聖霊の導きを求めてみたいと思いました。
☆与えられた導き
  • 終末の事柄を信じることができるように聖霊の導きを求めて祈る。

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