2020年10月29日
(内容)
- 偶像に備えられた食べ物を食べることについてのコリント教会からの質問にパウロは答える。パウロは、自分の態度が他の人に与える影響を考えている。自分が正しい行動をしても、それが他の人に悪い影響を与えるなら、その正しい行動を控えなければならない。
(黙想)
- 当時、市場で売買される肉は、その前に偶像に献げることがおこなわれていたらしい。異教の習慣である。キリスト者がその肉を食べていいのか、という問いが生じる。また10節では、偶像の神殿での食事の席に着くということが書かれている。どのような会合、集会なのかはわからないが、キリスト者が異教徒の関わりを持つことがある。
- 神は唯一の神しかおらず、偶像は神ではない。だから偶像にささげられた肉であっても、気にしないで食べてよい。しかしこの自由な態度が、良心の弱い他のキリスト者に影響を与えることがある。良心が弱い人とは、キリスト者になる前は偶像を礼拝していた人で、偶像に供えられた肉を食べていいのかどうか、悩むのである。
- 自由な心で肉を食べるキリスト者の姿を見て、良心の弱い人たちが偶像にささげられた肉を食べ、自分は罪を犯したではないかと悩む。苦しむ。そしてついには滅ぶとパウロは語る。弱い良心を傷つけるのは罪である。弱い良心を持つ人を救われたキリストに対して罪を犯すことでもある。
- 「良心が弱いために汚される」。どういうことか。良心の弱い人は、偶像に供えられた肉を食べるとき、自分は罪を犯したのではないかと、悩む。自分を責めるかも知れない。そのことを「汚される」と語るのか。罪を犯していないのに罪を犯したのではないかと不安になる、悩む、それを汚れる、汚されるというのか。
- 神は唯一であり偶像なる神は存在せず、偶像に供えられた肉を食べても罰が当たることはない、との知識は大切である。しかし、そう考えることのできないキリスト者もいる。彼らは偶像に供えられた肉を食べると罪を犯したのではないかと恐れる。その結果、滅びるとパウロは言う。「滅びる」は比喩的な表現であり、信仰から離れることを指しているのではないか。
- 良心の弱い信仰者をつまずかせることは罪であり、その人を救ったキリストに対して罪を犯したことになる。兄弟をつまずかせるくらいなら、自分は肉を食べないとパウロは言う。
- 異教社会の中で信仰を得たキリスト者は、慣れ親しんだ異教の習慣とどう関わったら良いのかと悩む。信仰的に正しい行動だとしても、兄弟をつまずかせるような行動はしない方がよい。
- 知識は大切だが愛はさらに大切である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
☆神が求める私たちの生き方
- <警告>信仰的な正しい知識に基づく行動が他者をつまずかせる可能性がある。
- <勧め>自分の行動が人をつまずかせないか、配慮が必要である。つまずかせる可能性があるなら、自分の行動をあらためる必要がある。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、信仰者の行動について考えさせられました。信仰者の行動は、それが信仰に基づく正しい行動でも、時に人をつまずかせる可能性のあることを知りました。
- それでは最近の自分の行動はどうなのか、誰かをつまずかせるようなことがあるのかどうか、と振り返ります。年をとり、人と関わることも少なくなりました。自分の行動が人をつまずかせる可能性はまったくないとは言えませんが、思い当たる節はありません。
- ブログで自分の思いや考えを発信していますが、人をつまずかせるようなことを書いているかと考えましたが、人はそれぞれに私の書いたことを受けとめるでしょうし、つまずきを与えるような激しいあるいは極端な考えを書くこともないと思います。
- 天の父なる神さま、もし私の行動が他者をつまずかせるようなことがあったら、教えてくださるようにお願いします。
☆与えられた導き
- 特になし