第一コリント 11章27~34節 ふさわしい心で聖餐を受ける

2020年12月24日

(内容)

  •  聖餐にあずかるとき、自分をよく確かめ、主の体のことを弁えるようにとの指示がなされる。

(黙想)

  • パウロはコリント教会で聖餐が正しく祝われていないことに対して忠告を与えている。17~22節ではコリント教会の問題を指摘し、23~26節では聖餐の祝い方についてパウロが受け継いだことを紹介する。そしてこの段落で忠告を書いている。
  • まず27~28節でどのような心構えで聖餐にあずかるべきかを語る。29~32節でふさわしくない態度で聖餐にあずかれば、神の裁きを招くと警告する。その裁きは主の懲らしめである。つまり悔い改めれば良いのである。33~34節で聖餐のために集まるときの指示が書かれている。
  • 聖餐にあずかるときの心構えについて自分をよく確かめ、主の体のことをわきまえるべきだと勧めがなされる。イエスが私たちの罪のあがないのために十字架の上で亡くなられたことをまず覚えなければならない。主のあがないの死のおかげで、私たちの罪が赦されたことを覚える。私たちは主のあがないのおかげで罪赦され、義とされていることを確認する。自分が罪赦され義とされていることの確かさを覚える。パンを食べ、杯から飲むことが確かなように、そのようにわたしたちの赦しと義とされていることが確かであることを覚える。自分は本当に罪赦されているのだろうかというような疑問は聖餐にあずかることによって解消する。そして永遠の命が約束されていることを覚える。
  • さらにパンを食べ、杯から飲むことはイエスのからだと血を自分の内に入れることになる。イエスが私のうちにおられることを意味している。私はイエスと結ばれていることを覚える。それ故このイエスが私たちの心を清め、罪を克服して生きることができるようにされていることを信じ、聖なる者として歩んでいこうとの志が大切と知る。このような志を持っているかどうか、自分を確かめることが大切となる。イエスの血は私たちを罪から清めたのである。
  • ふさわしくないままで聖餐にあずかった結果、コリント教会では、病人が出て多くの者が死んだという驚くべきことが書かれている。当時は、そういうことがあったのかも知れない。イエスが私の記念として行いなさいとお命じになったことが軽んじられていた。コリント教会での裁きは、この聖餐を厳粛に受けとめるべきであることを後世に教えるものであったのかも知れない。私たちの場合は、日曜の礼拝の中で聖餐が祝われるので、コリント教会で起きたような富める者と貧しいものとの間の見えない壁が生じるようなことはない。しかし聖餐の意義を深く確かめることは大切である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>ふさわしくないままでイエスの体と血を受ける者を裁く方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>ふさわしくないままで聖餐にあずからないこと
  • <勧め>自分をよく確かめ、主の体を弁えること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日もデボーションをし、聖書を思いめぐらすことができたことを感謝します。今日は聖餐について思いめぐらしました。聖餐にあずかるとき、聖餐の意義について思いめぐらしながらこれにあずかっています。
  • きょうこの箇所を思いめぐらしましたので、今一度聖餐の意義について教会が教えてきたことを確認したいと思います。ハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスタ信仰基準が聖餐について教えていることを確認したいと思います。そして聖餐の意義、聖餐にあずかるときの心構えについて簡単にまとめ、聖餐にあずかるとき、まとめたものを読めるようにしたいと思いました。
  • 次回聖餐にあずかるのは1月10日になるのでそれまでにまとめたいと思います。
☆与えられた導き
  • 聖餐について調べまとめる。

 

 

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