2020年12月30日
(内容)
- 洗礼を受け、聖霊をいただいたキリスト者は、キリストの体である教会に一員となったこと、キリスト者はその部分であることが教えられる。
(黙想)
- パウロはここで教会が、キリストの体であることを語る。部分は多くても一つの体を作っている。このような教会論を語るには理由があった。コリント教会では、誰を指導者とするかで争いがあった(1章)。11章では聖餐にあずかるために集まるとき、そこに富める者と貧しい者との間に見えない壁があった。パウロは教会とは何かを教えて問題の解決を指示している。
- 12~14節では、洗礼を受けることはキリストの体の一員になることだというキリスト者の自己理解が語られる。キリストの体の一員、これはキリスト者のアイデンティティーである。教会はキリストの体という理解をパウロはどのように得たのかと思う。
- 旧約のイスラエルの民は神の民であった。それが彼らのアイデンティティ。彼らは神への信仰によって生きることが期待されたが、神の民としての一致は考えられていないように思う。民族が信仰において一致するというのはむずかしい。信仰の継承は難しいのはイスラエルの歴史を見ればわかる。
- 個別のキリストの教会は、人数的に見て一致を追求できる。キリスト者は自覚的な信仰によって教会に加わるのだから、教会は信仰告白共同体だから、一致は目指すことのできる目標である。
- 14~22節では、信仰者はキリストの体の部分であること、キリストの体には様々な部分があり、部分によって働きは違う。どの部分もキリストの体に必要である。不要で役に立たない部分はない。
- 弱い部分、見栄えのしない部分はある。それは各部分が互いに配慮し合うために必要である。そこには愛が働く。
- 弱い部分は必要であり、一つの部分が苦しめば共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば共に喜ぶ。教会員が病気になったり、困難に直面したとき、執り成しの祈りをする。これはある意味、共に苦しむことである。他の教会員の喜びを聞いたら、共に神さまに感謝をする。
- 一人ひとりのキリスト者は、キリストの体の一部分として教会の働きに関わる。また一人の個人としてこの世に生きる。キリストの証人として生きることになる。その働きが素晴らしいものであれば、私たちは共に喜ぶ。お互いの信仰生活を分かち合う時、このように共に苦しみ、ともに喜ぶことが具体的になるのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>キリストの体は教会である。
☆神が私たちに揉める生き方
- <教え>キリスト者は、キリストの体の部分である。キリスト者は孤立した信仰者ではない。キリストの体の一員として、他のキリスト者と共にキリストの体である教会を構成する。
- <勧め>弱い部分が苦しめば、その苦しみを共にする。執り成しの祈りは大切である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、パウロがどのようにして教会をキリストの体と理解するようになったのか、興味深いです。それを知ることは、私たちが自分がキリストの体の部分であることを理解し、部分として生きることにつながるように思います。パウロが教会をキリストの体であると考えるようになった道筋を知ることは大切だと思いました。このことは来年の課題とし、来年は教会について学ぶことにしたいと思います。
- 牧師を引退した今、インターネットを通して発信していますが、このささやかな働きは、キリストの体の部分としての働きと受けとめることができたことは感謝です。喜んで来年も続けたいと思います。今年一年の発信もあなたの支えと導きの中で行われたことました。今日はこのことを感謝したいと思います。
☆与えられた導き
- この一年でのネットを通しての発信について感謝する。