第一コリント 15章9~11節 神の恵みによって今日のわたしが

2021年4月20日

(内容)

  • パウロはイエスの復活を語るとき、イエスは自分にも現れたと語る。彼はキリスト者を迫害していたので使徒と呼ばれる値打ちもない。しかしその彼に現れてくださったとキリストの復活を証ししている。

(黙想)

  • パウロは、自分は神の教会を迫害していたので、使徒と呼ばれる値打ちがない者だと語る。パウロは使徒として選ばれた。神の選びは恵みであり、選ばれる者の価値のゆえに選ばれるのではないことを知る。だからといって、神はくじ引きで誰かを使徒にするわけではなく、選ぶ人間を見るに違いない。しかしあくまでも選びは神の自由に属することであり、自分に選ばれる資格があったなどと考えるべきではない。神の選びは恵みの選びである。
  • 私たちが信仰者にされたのも、恵みの選びと言えるのではないか。信じたのは自分ではあるが、キリスト教との出会いは、神の導きと考えることができる。そして牧師の働きへと召されたことも神様の導きと選びと考えることができる。神学校に行ったときは、牧師になるつもりはなく、ただ聖書を学びたかっただけであった。でも卒業する頃は、牧師になるのが当たり前と考えるようになっていた。
  • パウロにとっては、使徒への召しは突然であり、それまでの歩みから180度の逆転の歩みであった。神の教会を迫害する者から、神の教会に仕え、キリストを宣べ伝える者とされた。劇的な大転換である。復活のキリストと出会い、使徒への召命を受け取った。これは神の恵みと彼は受け止めた。
  • 「神の恵みによって今日のわたしがある」。使徒として彼は働いた。そこには彼の努力がある。しかし背後にあって神の恵みがあったとパウロは自覚する。自分の努力ですべてを成し遂げたわけではない。むしろ神のご支配の中で生かされ、彼は努力をしたのである。神が私たちを通して何事かをなそうとされるとき、神は私たちの努力を用いられる。しかし私たちの努力だけで、神の目的が果たされるわけではない。私たちは神様のご計画の中で生かされ、努力する。だから自分を誇ることはできない。パウロは、努力し、神の恵みによって支えられ、今日の彼がいる。そして今日の僕がいる。僕もパウロと同様に、神の恵みによって今日のわたしがあると告白する。
  • 「わたしに与えられた恵みは無駄にならず」。私に与えられた神の恵みが無駄になることがある。自分の力に頼ると、神の恵みを無にすることがある。また神の召しに従わなければ、無にする。神との交わりの中で生きることが必要となる。
  • パウロは「他のすべての使徒よりずった多く働きました」と語る。パウロにはそう語ることができるだけの事実があった。各地域に教会を作った実績がある。彼はそれを誇ることはなく、神の恵みの働きの結果であるとする。神の恵みに生かされている。
  • 神の恵みによって生かされているとのパウロの告白は学ばなければいけない。神の恵みのおかげでパウロの人生は大転換を遂げた。パウロは、神の恵みによりキリストを宣べ伝えるという使命を与えられた。神の恵みのおかげで多くの働きをすることができた。そして神の恵みのおかげで今日のパウロがいる。
  • 今日の自分があることは神の恵みであり、この神の恵みによって自分は生かされてきたのである。感謝し、神を賛美する他ない。神さまがどんなふうに自分を導いてくださったのか、どんな恵みによって今日の自分があるのか、振り返ってみたいと思う。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>父なる神の恵みは私たちを活かす。神の恵みによって私たちは生かされ、導かれ、今日の私がある。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>これからも神の恵みに頼って生きること。
  • <勧め>これまでの神さまの恵みを思い起こし、神さまをたたえること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、パウロがあなたの恵みを語るのを読みました。そして私もあなたの恵みによって生かされ、今日の私があることを覚えます。感謝します、今日は私の歩みを振り返り、あなたの恵みを一つずつ思い起こし、感謝したいと思います。また文章に書き起こし、証としたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
  • これまでの歩みを振り返り、神さまの恵みを感謝する。証として文章に残す。

 

 

 

 

 

 

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