2022年10月7日
(内容)
- 人は皆罪を犯して神の栄光を受けられなくなった。
(黙想)
- ここには罪を犯した結果が示されている。人は神の栄光を受けられなくなったとある。どういうことか。ローマ書には次のような言葉がある。
ロマ 5:2
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
- この聖句によれば、罪のために失った栄光にあずかる希望が与えられていることになる。さらにローマ書には次のような言葉がある。
ロマ 8:30
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
- 神はイエス・キリストを信じる者を義とした。義としただけではなく、栄光をお与えになったとある。
ロマ 9:4
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
- イスラエルの民は、神の子としての栄光が与えられているとある。さらに次のローマ書の言葉。
ローマ 8:14
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
- これらを合わせて考えるとキリスト者が神の子として生きること、それがキリスト者の栄光であると考えることができる。パウロにとって救いとは罪の赦しにとどまらず、神の子として生きることである。それは神に創造されたアダムトエバがエデンの園で生きいていた姿であり、イエスの生きる姿である。救いとは、回復である。その回復はどのようになされるのか、パロは、ローマ書で語っていく。
- キリスト者とは、神の子として生きることである。喜んで神の子として生きるのである。
- 人は罪を犯し、神との交わりを失った。アダムとエバは神が近づいたとき、神を避けた。神の似姿に造られたが、神の似姿を失った。神の子、それは神の似姿でもある。神の似姿の回復、それが失った栄光の回復である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>人は罪を犯し、栄光を失った。キリスト者として生きることは栄光を回復することである。
- <教え>神の子として生きること。キリストを信じる者は、救いの恵みとして神の子とされる。人は洗礼を受け、新しく生まれ、神の子とされた。神の子として生きること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝です。聖書を一節ずつ、丁寧に読むことの幸いを思います。以前は、栄光を失うとはどういうことか分からないでいましたが、パウロが「栄光」ということばをローマ書の中でどう使っているかを見るとき、理解が与えられました。聖書は聖書によって解釈するという原則が真理であることを思います。
- 今日は、神の子として生きること、キリスト似姿を目指して生きることを歌詞としている讃美歌をチェックしたいと思います。以前からしたいと思っていたことなので、これを適用とします。
☆与えられた導き
- 讃美歌のチェックをする
讃美歌 11番、91番、177番、325番