2022年11月2日
(内容)
- 人の誇りはどこにもないとパウロは言う。人の誇りは取り除かれたという。
(黙想)
- この27~28節をパウロはなぜ書いたのか。一つの理由として律法を誇るユダヤ人を意識してのことと思う。律法を熱心に守るユダヤ人は、そのことを誇り、自分は神に救われている、神の前に義とされていると信じていた。彼らは律法を守ることによって得られる自分の義を追い求めていた(ロマ10:3)。コリント教会やガラテヤ教会には、救いには律法を守ることが必要だと説く教師が来て、教会を混乱させていた。
- 28節にあるように、パウロは人が義とされるのは信仰によるのであり、律法の行いによるのではないことをはっきりさせたかったというか、確認したかったのである。
- 誇りに言及するのは一種の適用である。律法を守り、自分の義を追求する者は、自ずと律法を誇り、己を誇ることなる。信仰によって義とされることは、そのような人間的な誇りは持つことができなくなったことを告げる。
- これはパウロ自身の経験でもある。フィリピの信徒への手紙3章には、「律法の義については落ち度のないものでした」と自分を誇るパウロがいた。しかしキリストを知ることの素晴らしさのゆえに、このような落ち度のない自分を誇る誇りはゴミ、くずに等しいとパウロは知った。そしてパウロは、何を誇るかと言えば、キリストの十字架を誇る。
ガラテヤ 6:14
このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。
- 人の誇りはどこにあるのか。人は自分の行いを誇る。その誇りは取り除かれた。その理由は「行いの法則」によってではない。行いの法則は、自分の行いを誇るという法則である。律法の実践によって人は義とされないから、律法の実践を誇ることはできない。「行いの法則」は律法の実践を誇れという。しかしこのような誇りは取り除かれた。
- 「信仰の法則」によってである。人は信仰によって義とされる、これが「信仰の法則」。この法則によって、自分を誇ることができなくなった。
- 人は誇りを必要とする存在である。なんの誇りも持てなくなるとき、人は生きる意味を見出せなくなる。それゆえ、人は努力し、その結果を誇りとする。何を誇るか、人それぞれである。
- パウロは、そのような人間的な誇りが空しいことをフィリピ書で語った。キリストを知ることの素晴らしさのゆえに、人間的な誇りをパウロは捨てた。パウロは何を誇るのか。キリストの十字架を誇ると語る。あるいは、誇る者は主を誇れとも語る。
- 信仰によって義とされたことを信じる人は、自分の行いを誇ることはできないが、主の十字架を誇ることができるし、主イエスを誇ることができる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による。
- <教え>律法の実践を誇ることは意味がない。行いに基づいて何かを誇ることはむなしい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日は義とされた者は何を誇るのか、教えられました。パウロはキリストの十字架を誇ると語っていますが、それは信仰によって義とされていることを感謝を持って受けとめ、義とされていることを誇ることでもありますね。あなたの恵みによって義とされていることを誇る、それはキリストの十字架を誇ることなのですね。
- 私は主の十字架を誇る者でありたいと願っていましたが、十字架を誇る一つの理由がはっきり示されたことを感謝します。今日はこの後、讃美歌142番を賛美し、私は十字架を誇りとすることを確認したいと思います。
☆与えられた導き
- 讃美歌142番で賛美する。