2023年4月8日
(内容)
- パウロは、キリストにより与えられる恵みの賜物のすばらしさを語る。
(黙想)
- パウロは、アダムとキリストの対比をする。つまり生まれた人は皆、アダムに結ばれた者として皆、罪を犯し、神の怒りを受ける者となっている。しかしキリストに結ばれた者は、神の恵みと恵みの賜物を与えられる。
- 人類は、アダムに結ばれる人とキリストに結ばれる人からなる。キリストに結ばれる人となることが救いである。
- 16節では、15節で語られた恵みの賜物について語る。それは義の賜物である。義の賜物はキリストによってもたらされるが、これは罪を犯した人によってもたらされたようなものではありませんとある。罪を犯した一人の人、それはアダムである。アダムがもたらしたもの、それは罪と死である。人はアダムに結ばれた者として生まれ、罪を犯す。そして自分に死を招く者となった。アダムがもたらしたものは、罪と死であるが、キリストがもたらしたもの、恵みの賜物は義の賜物である。何という違い。
- 裁きの場合、一つの罪でも有罪の判決が下される。つまりアダムに結ばれた者は、一つの罪を犯しても、有罪の判決が下される。神の前に有罪となる。しかしキリストの恵みは、どんなに多くの罪を犯した人でも、信じるなら無罪の判決が下される。何という違い。
- 片や一つの罪を犯しても有罪となる。他方は、多くの罪を犯しても無罪の判決を受ける。どちらが素晴らしいのか。それは明らかである。どんな人も、イエス・キリストによる贖いを信じる者は、無罪の判決を受けることができるのである。神の裁きを恐れる必要はなくなり、神との間に平和を得て生きることができるようになった。
- 間違いを一つ犯したら怒られるのと、多くの間違いをしても怒られず、無罪、つまりなかったかのようの取り扱ってもらえるのとどちらがありがたいのか。どちらが恵みなのか。それは明らかである。
- 神はなぜ、このような恵みの賜物を与えてくださるのか。神の目的、神の御心は何なのか。罪を犯す者たちが悔い改めて、神との間に平和を得て生きることである。神の栄光にあずかる希望に生きるためである(5:2)。
- 神は私たちが神の形にふさわしく生きることを願う。キリストに結ばれた者として、キリストを映し出すような者になることを願っている。私たちをそこに向かわせるために、多くの罪を犯した私たちを無罪とする。義と認める。
- しかし、そのような神の御心を余計なお世話と思う心も私たちにはある。私たちは自分の生きたいように生きたいと願う。神は自分の願いを聞いてくれればいいと思う。そんな思いが私たちにはある。
- しかしここにこそ、罪がある。神を喜ばないのである。私たちが神を喜ぶ、そこに私たちの救いがあり、神の救いの実現がある。罪の本質は、神を喜ばないこと、神を知ろうとしないこと。そのような心がある限り、神の戒めを破ることはなくならない。罪の解決は神の赦しではない。罪の解決は私たちの心の変化である。神を喜ぶような心になることである。
- 神は多くの罪を赦し、神を喜ぶように私たちを招いている。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>アダムが私たちにもたらしたものは罪と死である。人は一つの罪を犯しても有罪の判決を受ける。
- <教え>キリストが私たちにもたらしたものは、命である(18節)。そして人が多くの罪を犯していても無罪の判決を受けることができる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。今日は思いめぐらす中で、私たちのうちに潜む、罪について教えられました。基本的な、そして深い罪です。あなたを喜ばない罪です。これはなかなか気づかない罪だと思いまう。
- 私たちは自分が犯した罪がいかに多くあろうと無罪の判決を受けるとのメッセージは喜んで受け入れると思います。この神の判決がどこを目指しているのかを知ると、それを迷惑に、余計なお世話に感じる心があるように思います。私たちの心は自分が大事なのです。自分の喜びを求めて生きているからです。
- 私たちの心を変えるのは、あなたの愛ですね。あなたに愛されていることを受けとめることが大切であり、福音を伝える者としては、神の愛の大きさ、豊かさ、深さを伝えていくことが大切となります。
- 先日ブログで、私たちに対するあなたの愛がどのようなものなのかを書きました。私自身、あなたの愛を十分に受けとめていないのではないかと今日、思わされました。ブログに書いた文章を読み直し、検討したいと思います。
☆与えられた導き
- 神の愛についての自分の理解の問題点を検討する。