2017年5月23日
(内容)
北イスラエル王国の最初の王ヤロブアムが死んだあとに王となった人物は皆、ヤロブアムの道を歩み、ヤロブアムの罪を繰り返し、神の怒りを招いたことが語られる。王に対する謀反が起きては、謀反を起こした者が次の王となるという事態を繰り返している。
(黙想)
- ヤロブアムは金の子牛像を造り、神殿を建て、祭司を立て、自分勝手に礼拝をした。そしてイスラエルに罪を犯させたと評価されている。イスラエルに立てられる王は皆、ヤロブアムの道を歩んだ、ヤロブアムの罪を繰り返したとある。このように自分の名が出てくることはヤロブアムにとっては不名誉なことであるに違いない。ヤロブアムは悪しき模範となった。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- 神は、ヤロブアムの罪を繰り返しイスラエルに罪を犯させた王に対しては、その家系を断つという裁きをくだしている。
- 神は畏れるべきお方である。神を畏れることのない北イスラエル王国では、権力争いが繰り返されている。
☆神が求める私たちの生き方
- (警告)神を畏れることが大切と知らされる。どの王も、ヤロブアムの罪を繰り返し、主の目に悪とされることを行ったとある。ヤロブアムの罪とは、金の子牛像を造り、これを拝んだことである。明らかに十戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」を破っている。ヤロブアムは悪しき模範となっている。
- (教え)像を造って礼拝することがなぜいけないのか。神は人格的な神であり、神との交わりに生きることこそが信仰である。ヤロブアムは神から「あなたの家を堅く立てる」との約束をいただきながら、「わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行いなさい」との神の仰せは守らなかった。像を造ることは、神信仰が神との交わりに生きることを教えない、いや忘れさせるゆえに、罪深い行いである。神との交わりに生きないヤロブアムは、神を捨てたと言われる(列王記上14:9)。
(神の導き)
☆黙想
- 自分が悪しき模範になる可能性を考えることができる。自分の後に続く者たちがいるから。そして自分は自分の前に行く人から何かを受け継いでいる。悪しきことを受け継ぎ、悪しきことを受け継がせている、ということがあるかもしれない。
- 牧師としての歩みを振り返るとき、一つの思いがある。聖霊を信じて生きることがどういうことなのか、あまり語られないということ。「聖霊を信じて生きることがどういうことか」、これを知ることにかなりの年月を僕は費やした。聖霊について語られないから、聞いてこなかったから自分も語らない、語れない、そういうことが繰り返されているような気がする。そして信徒に、説教の聴き手に、深い失望を与えてきたのではないか、と思う。
- 6月4日のペンテコステに、無牧の教会で説教奉仕を与えられている。聖霊の働きについて、語る機会が与えられているので、聖書に即して、語りたいと思う。
- イスラエルの王がヤロブアムと同じ道を歩み、イスラエルに罪を犯させたとの記述を読む時、この国の政治家のことも思う。この国の首相は、言葉に対する誠実さが欠けている。僕らの信仰は何よりも「言葉」が大切であるので、誠実さの欠如が目につく。首相がそうだから、大臣が失言を繰り返している。そして首相は大臣を罷免しない。言葉に対する誠実さを軽んじる風潮が蔓延していかなければよいと願う。首相はその地位にふさわしくないと考える。
☆与えられた導き
- 今日は中部教区総会のために出かける。電車の中でペンテコステの出来事を思いめぐらす。
- 今日も、神が首相をその座から退けられるように祈る。
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