2018年6月16日
(内容)
- 悪霊に疲れた子を持つ男が、山から下りてきたイエス様に悪霊に取り憑かれた息子から悪霊を追い出すように頼んだ。そこでイエス様は悪霊を叱り、その子をいやされた。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)41節。イエス様はご自分が生きている時代を、「信仰のない、よこしまな時代」と呼ばれた方。ご自分が生きている時代がどんな時代かを認識しておられる方。
- 何をもってそのような発言をされたのか。悪霊にとりつかれた子供を持つ父親がイエス様に向かって、息子の状況を話し、弟子たちに頼んでも追い出してもらえなかったと大声で訴えたとき、「何と信仰のない、よこしまな時代」と言われた。
- 父親の発言とイエスの発言の関連は明瞭ではない。この父親の発言がなくても、イエス様は、そういう時代認識を持っておられたと思われる。
- 私たちの生きている時代も、信仰のない、よこしまな時代と言えるのではないか。
- (御子)41節。イエス様は、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と厳しい言葉を弟子たちに投げられる方である。
- 「あなたがた」が誰を指すのか。明瞭ではない。弟子たちを指すと思われる。
- 9章の最初でイエス様は弟子たちを福音宣教に遣わした。その時、弟子たちに悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けている。でもこの場面では、弟子たちは悪霊を追い出せないでいた。このことが、我慢できないと言われた理由なのだろうか。よくわからない。
- 「いつまで・・・我慢」という言葉は、イエス様がふだんから弟子たちを我慢していたことを伺わせる。
- (御子)42節。イエス様は悪霊に対して権威と力をもつ方である。悪霊を叱り、子どもから追い出している。悪霊が出て行くのを見た人々は神の偉大さに心を打たれたとある。
☆神が求める私たちの生き方
- (吟味)41節。「いつまで、あなたがたと共にいて、あなたがたを我慢しなければならないのか」との厳しい発言は、私に向けられていないと言えるだろうか。私たちの教会に向けられていないと言えるだろうか。
- (教え)41節。私たちが生きている時代も「信仰のない、よこしまな時代」ではないか。
- ペンテコステの日ペトロはエルサレム神殿の境内で「この邪悪な時代から救われなさい」と説教をしている。またパウロは、ガラテヤ書の最初の挨拶の部分で、「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」とある。
- キリストはわたしたちを悪の世から救い出すお方でもある。よこしまな時代からの救い、悪の世からの救い、という救いの理解は、私たちはしてきたのだろうか。救いと言えば、罪からの救いを考えてきた。
- (吟味)41節。もしイエス様が私に対して、「いつまであなたを我慢しなければならないのか」と言われているとしたら、どう受けとめたらよいのか。問われていると受けとめることができる。イエス様の厳しい御言葉が自分に向けられたことになる。
- 信仰のないよこしまな時代に対して、どう関わるのか、考えよとおっしゃるのだろうか。それとも牧師の働きを引退して、世間的に言えば余生に生きているわけだが、自分の歩みにイエス様は我慢できないと言われているとしたら、どう考えたらよいのか。何か、自分の歩みにおいて転換が求められているのだろうか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読みました。今日は、イエス様のお言葉に注目しました。説教者として説教をしてきましたが、「信仰のない、よこしまな時代から救われなさい」という説教はしてきませんでした。救いと言えば罪からの救いと考え、「罪からの救い」については語ってきました。
- しかしペトロもパウロも「よこしまな時代から救われなさい」との勧めをしています。私たちが生きているこの時代も、よこしまな時代です。信仰のない時代です。ペトロやパウロのように、「この邪悪な時代から救われなさい」との説教が求められていますね。これはいうならばこの世の人に向けた説教です。この世の人に向けた説教、この世の人の心に届く説教に目を向ける、一つのチャレンジですね。信仰者もこのよこしまな時代の中に生きていて、よこしまな時代の影響を受けています。この世の人に向けた説教は、信仰者向けの説教にもなりますね。
- 今、無牧の教会に月二回説教奉仕をしています。上に述べたような説教をしてみたいと思いました。でもどんな説教をしたらいいのか、見当もつきません。まず祈りから始めたいと思います。
☆与えられた導き
- この世の人向けの説教をすることについて導きを祈る。