2018年6月20日
(内容)
- 自分たちの内で誰が一番偉いのかと議論している弟子たちに対するイエスの教えが語られている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)47節。御子は弟子たちの心の内を見抜く方です。
- イエス様は何を見抜いたのでしょうか。弟子たちの心には、偉くなりたいとの気持ちがあることが分かります。だから誰が一番偉いかなどの議論をしたのです。偉くなりたいとの思いがあることなら、私も見抜けます。
- イエス様が見抜いたもの、弟子たちの心の中にある思い、それは僕の中にあることを思います。自分を認めて欲しいとの欲求です。称賛に値する存在として認められたいとの欲求です。何か事をなそうとする人の心にあるものです。その時、自分が人生の主人なのです。イエス様はこの承認欲求を見抜かれたのだと考えます。
- 承認欲求は、偉くなりたいとの形だけに表れるものではなく、子供が親に認められたい、と願うことにも現れます。それは一概に悪いものとは言えません。親が子供を無視するネグレクトという罪があります。
- 人間の関係において、互いに相手を認めることは大切なことです。認める、それは愛です。しかし人間には、名誉欲があり、そこから自分を認めて欲しいという欲求が生まれます。それは自分の栄誉、栄光を求めることとなり、よいものではないと思います。
☆神が求めるわたしたちの生き方
- (教え)48節。イエスの名のために子供を受け入れる者はわたし(イエス)を受け入れるのです。
- お子供を受け入れるとはどういうことでしょうか。子供を一人の人格者として認めるということです。子供ですから、未成熟です。未成熟だからと言って、軽んじてよいことにはなりません。人格を持った者として認め、敬うこと、それが子供を受け入れることと考えます。
- ある時、研修会で「赤ちゃんも人格を持っています」と聞いて、一瞬驚いたことがあります。未成熟の赤ちゃんが人格を持っている者として敬われるべきであるとの考えに戸惑いましたが、その通りだと考えるようになりました。親による子供の虐待、ネグレクトは、子供を人格を尊重しないところから生まれるのだと思います。
- 小さな子供を受け入れる人はイエスを受け入れるとあります。小さな者を受け入れるというのは、イエス様ご自身の考えであり、さらには神さまのお考えだということだと思います。
- 人格を重んじるとは、愛するということです。自分が偉くなりたいとの思いは、ただただ自分を認めてとの思いです。そのような心には、他者の人格を大切にする考えが少ないのだと思います。
- このイエス様の言葉は弟子たちに対する挑戦といってもよいと思います。悔い改めを求める言葉です。
- (教え)48節。最も小さな者こそ、最も偉いものである。
- 「偉い」とは何を意味するのだろうか。尊敬の目をもって見られることが偉いということか。小さな子供の人格を認めることがイエス様の教えであり、最も小さな者の人格を認めよとイエス様は教えます。最も小さな者こそ、最も偉いと語ることによって、最も小さな者の人格を受け入れるべきことを教えている。
- 最も小さいのは、子供だけではない。私たちだって小さい者である。神さまに仕える者として、大きな働きをして、皆に認められたいとの思い、つまりは偉くなりたいとの思いは、根深く私たちの中にあるのではないだろうか。私の中にもあります。でも大事なことは、自分が認められることではなく、どんな小さな働きでも、神さまに仕えていくということです。神さまは、私たちの働きを認めてくださっています。自分だけでなく、他者の働きもそれがいかに小さくとも、敬意を払うことは大事なことです。私たちの働きをどのように用いられるのか、それは神さまの自由です。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、偉くなりたい、それは野心です。それは自己中心的なものです。神さまに仕えることすら、私たちの野心の対象となることがあります。神さまに仕えつつ、なお自分の働きを認めてもらいたいとの思い、それは悔い改めるべきと教えられました。
星野富弘さんの詩で、好きな詩があります。「小さな実」という題がついています。「私にできることは/小さなこと/でもそれを/感謝して/できたら/きっと/大きなことだ」。 - どんな小さなことも感謝して行うこと、それは子供の人格を敬うことに似ていますね。小さな子供を受け入れることに似ていますね。そして神さま、あなたも小さい者である私たちのことを認めてくださっていると信じます。そのことを信じて、自分にできる小さなことに忠実に歩みます。
- 私にとって『御言葉によって生きるための提案』というサイトは、信仰者としての証しです。御言葉によって生きることの証しです。このサイトを通して、多くの人が御言葉によって生きることを願っていますが、まずあなたが、私を導き、このサイトをつくることができました。私が心を注ぐべきは、真実なディボーションをすることだと思います。それ以外のことはあなたにお任せします。星野富弘さんのおっしゃるように、感謝して行うこと、そして感謝できればそれで十分とすることいたします。たといそれが小さなことだとしても、それは大きなことだという。何を持って大きいというのか、人が認めるから大きな働きをしたと言うことなのか、神の前には、小さなことでも感謝して行えるなら、それは大きなことなのだ。
- 昨日から、ルカのこの箇所の出をしてきましたが、ディボーションできたことを深く感謝したいと思います。感謝こそ、大きなことだと考え、感謝の祈りを捧げます。星野富弘さんの詩を机の目の前の壁に貼りだして、心覚えにします。
(与えられた導き)
- 感謝の祈りをする。
- 星野富弘さんの詩を壁に貼る。