ヨハネ福音書6章60~71節

2019年8月29日

(内容)

  • イエスが語った言葉を聞いて、これはひどい言葉だといってつまづいた弟子たちがいた。イエスは、私の言葉は霊であり、命であると告げ、イエスを信じない者たちは、父なる神の許しがないからだと告げた。

(黙想)

  •  63節に「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」とある。ここには霊と肉の対比がある。このすぐ後に、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とある。イエスの言葉は霊的なものであり、命を与える、との意味となる。
  • イエスの弟子たちの多くの者が「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」との言葉を聞いて、ひどい話だと結論づけた。イエスの言葉を霊的なものと受けとめなかった。文字通りにつまり肉的に受け取った。文字通りイエスの肉を食べ、イエスの血を飲むと解釈した。これは比喩だとは受けとめなかった。
  • イエスの肉を食べ、血を飲むは、比喩的に解釈されなければならない。天から降ってきたパンであるイエスを受け入れること、その語ることの真意を受け入れること。するとその人は「イエスによって生きる」(57節)。
  • イエスの言葉は霊的なもの、言い換えると神の言葉である。神の言葉によって生きるとき、人は生きる者となる。それは罪人としての生ではなく、信じる者の生である。聖霊によって生まれ変わった者の生である。イエスの語る言葉を神の言葉として受け取ることができるのは、父なる神の許可が必要であり、言い換えれば、聖霊の導きが必要である。
  • 我々は直接神の言葉を聞くことはない。我々はいつも人が語る言葉を聞く。そこに神の言葉を聞くか否か。聖書を読むときに、それを人間の書いたものとしてではなく、神の言葉として読むか否か。神の言葉が人を生かす。
  • 人は、神の言葉を聞くということ、神の言葉を読むということがどのようなことか、わかっているのだろうか。一つは神の言葉にとらえられるということ。その結果として神の言葉によって生きていこうと導かれる。今ひとつは、聞いた言葉、読んだ言葉を神の言葉と信じて受け入れて生きるということ。
  • 人が神の言葉に従おうとするとき、そこには必ず、不信仰との戦い、罪との戦いが生じる。従いたくないとのかたくなな思いとの戦いがある。本当に神の言葉なのかという疑いとの戦いもある。聖霊の助けを得て、この戦いに私たちは打ち勝つことができる。これができてこそ、イエスによって生きているということができる。
  • 12弟子はイエスから「あなたがたも離れていきたいか」と問われた。ペトロは、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられるます」と信仰の告白をしている。さらには「神の聖者である」との告白もしている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)63節。イエスは神の言葉を語る方。イエスの語る「言葉は霊であり」とはイエスの語る言葉は神の言葉であるということ。それゆえ、その言葉を受け入れ、従う者には命が与えられる。
  • (御子)64,70節。イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいることをご存じである。イエスはその者を弟子たちの中から追い出すことはせず、弟子として受け入れている。
  • (御父)65節。父の許しがなければイエスのもとに行くことができない。イエスを信じることができるのは、神の導きに他ならない。
☆神が求める私たちの生き方
  • (模範)68節。イエスは永遠の命の言葉を持つ方との弟子たちの告白は模範。イエスの言葉を神の言葉とし、神の言葉が自分を生かすと信じ、告白することは大切なこと。信仰者のしるし。
  • (教え)71節。ユダはイエスのそばにはいたが、イエスの言葉を信じてはいなかった。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、私は信仰を持ち、聖書を読み、聖書があなたの言葉と確信して以来、あなたの言葉によって考え、行動するようにしてきました。人間の言葉、人間の知恵には頼らず、あなたの言葉によって歩いてきました。そして私は命を与えられた歩みをしていると確信できますことを感謝します。愛、喜び、平安があります。生きる意味を見いだし、あなたに仕える道を教えられ、本当に感謝です。救い主なる神さまをたたえます。
  • でもそもそも神の言葉とは何でしょうか。それはあなたの言葉ですが、人間にとってあなたの言葉とは何でしょうか。それは何よりも権威ある言葉です。それは敬って聞くべき言葉です。謙遜に聞き従うべき言葉です。信頼することのできる言葉です。真理の言葉です。そして聖霊の導きがなければ、わたしたちは神の言葉を知ることはできないと思います。イエス様はそのような言葉を語られました。聖霊の導きがなければ、人は神の言葉と受けとめることはできません。
  • 天の父なる神さま、私たちが神さまの言葉を聞くことができるというのは当たり前のことではないことを思います。
  • 礼拝説教を聞いている人たちは、説教を牧師による信仰的な話と受けとめているのでしょうか。それとも神の言葉と受けとめて聞いているのでしょうか。説教として語られる言葉は、説教者の言葉です。それを神の言葉と信じる信仰が求められるわけですが、果たして礼拝参加者はそのような信仰によって説教を聞いているのでしょうか。それとも説教者による信仰のお話を受けとめているのでしょうか。神の言葉として聞くことができたという聴聞体験があるといいのですが、それがないと信仰のお話を聞くことに留まってしまいますね。
  • 祈りつつ説教の準備をし、私の語る言葉が、神の言葉として聴かれるように神さまの導きをお願いします。
☆与えられた導き
  • 次回の説教のために私の語る言葉が、神の言葉として聴かれるように神さまの導きを祈る。

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