マルコ福音書 9章38~41節 イエスの名を使う

2022年8月4日

(内容)

  • イエスの名によって悪霊を追い出す人、キリストの弟子たちに一杯の水を与える人についてのイエスの言葉。

(黙想)

  • イエスの働きを見て、真似をする者がいる。彼はイエスの名によって悪霊を追い出している。しかしイエスに従おうとはしない。このような人にどう対処したらよいのか。
  • 使徒言行録19章にユダヤ人の祈祷師たちが、悪霊を追い出そうとしている。彼は言う、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」。すると悪霊は「イエスもパウロも知っている。でもお前は何者だ」と言い、悪霊に取りつかれた人が祈祷師に飛びかかっている。これは安易にイエスの名を使ってはならないことを教えている。
  • この箇所では、弟子でない者がイエスの名によって悪霊を追い出しているのを弟子たちが見たという。弟子たちはやめさせようとした。そのことをイエスに報告するとイエスはやめさせてはならないと語る。
  • もし自分がイエスの弟子であったとしたら、誰かがイエスの名を利用して悪霊を追い出しているのを見たら、何か言いたくなるかも知れない。しかもイエスを信じようとしていないとしたら。
  • しかしイエスは弟子たちに目くじらを立てるなという。細かいことに気を遣わないようにと教えておられるように思う。
  • 41節。「キリスト」という言葉が出てくる。マルコ福音書でキリストという言葉が出てくるのは2回だけ。この福音書の冒頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め」でキリストという言葉が使われている。もう一回は、この箇所。ここでキリストという言葉が出てくることに奇異な感じを抱く。キリスト者でない者が、弟子たちに水を飲ませたなら、その人は報いを受けるという。
  • キリスト者に対して親切にする人はいるだろう。その人が神から良い報いを受けるのはよいことだ。それはそれとしてこの教えは、キリスト者にどんな意味があるのだろうか。親切にしてもらったら感謝せよとの教えなのか。
  • 福音書著者は、なぜこの出来事を福音書の中に記録したのだろうか。この箇所からは、教えを汲み取ることができないので、ここでおしまい。

 

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