マルコ福音書 10章1~12節 結婚について

2022年8月10日

(内容)

  • ファリサイ派の人々がイエスを試そうとして、「夫が妻を離縁することは律法に適っているか」と尋ねた。神が離婚を許したのは、人間の心が頑なだからとイエスは答えた。

(黙想)

  • 結婚をめぐっての議論。ファリサイ派の人がイエスを試そうとしたとある。イエスは、モーセは何と命じたのか、とファリサイ派の人に問い返した。離縁は律法に適っているとファリサイ派の人に言わせている。
  • その上でイエスは、人間の心が頑ななので、神は離縁を許したと語る。イエスは神の心を語っている。戒めの背後には、なぜその戒めを神は与えたのかという神の心がある。石の板に書かれた文字だけを見ているのがファリサイ人、そして人間。イエスは掟の奥にある神の心を見ている。
  • 神の御心とは、男女が結婚して一体となることにある。つまり夫婦は愛し合って生きるのである。二人は別々ではなく、愛し合う夫婦として一体となる。ここに神の目的がある。夫婦は神が結び合わせたものであり、人は神が結び合わせたものを離してはいけない。本来、離縁というのはあってはならないものである。
  • 妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになるとイエスは語る。ここには、夫の都合によって妻を離縁することが行われていたことが背景にある。極端な話をするなら、夫に好きな女性ができたので妻を離縁して、その女性と結婚することも可能なのである。離縁の理由はいくらでもつくれる。要は夫婦関係に誠実でないまま、離縁する状況があったと思われる。だからイエスはたとい離縁しても姦通の罪を犯したことになると語る。
  • そもそも神はなぜ男と女を造ったのか。それは人類が繁殖するためだけではない。神がご自身に似せて人を造られたら男と女に造られた。それは人間が交わりに生きるものであることを示す。男と女は結婚し、夫婦という関係に生きるのである。さらに人は神との交わりに生きるように造られていることが目指される。そして交わりは愛に基づく。愛が交わりを支える。
  • 姦通という罪があるように、人が神ならぬ者を神とする偶像礼拝は、聖書では姦通になぞらえられる罪である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>神は男と女を結び合わせ夫婦にする方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>夫婦は互いに愛し合い、一体となること。
  • <模範>イエスは神の戒めを文字通りに受けとめるだけではなく、その背後にある神の御心を見ている。それは大切なことであり、模範である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日は離縁に関する主イエスの教えを読みました。本来離縁はあってはならないもの、しかし人間の心が頑なゆえ、結婚を継続できないことがあり、離縁を神さまは許したとあります。大事なことは神さまが結び合わせてくださったことを信じることです。私は妻とキリスト教式で結婚し、神さまが結び合わせてくださったと信じて、結婚生活を続けてきました。
  • 振り返れば、45年の結婚生活です。喧嘩することもありましたが、共に神さまを礼拝し、神さまの御心を共に大切にし、生きてくることができたと思います。愛し合うことを教えられたことは本当に感謝なことでした。
  • 夫婦共に老人となりました。どちらかが天に召されるという形で地上の生活で別れることが起きます。その時はその時で、神さまにおゆだねすればよいと思います。
  • 今日は、あなたに感謝の祈りをささげたいと思います。
☆与えられた導き
  • 感謝の祈りをささげる。

 

 

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