ルカ福音書 12章1~3節

2018年8月15日

(内容)

  • イエス様は弟子たちに、ファリサイ派の人々の偽善に注意するように命じられた。それはファリサイ派の人々の偽善を見抜くということではなく、同じ偽善に陥るなとの警告である。そして隠すものは必ず露見するとの警告。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)1節。イエス様は偽善を憎まれる方である。弟子たちに偽善に染まって欲しくないと考えておられる。
☆神さまが私たちに求める生き方
  • (警告)偽善者になってはいけない。
  • 偽善者とは、仮面をかぶる人、演技する人を指すと言われます。つまり自分以外の人間を演じるのです。心は悪いのに善人を演じるのです。自分をよく見せようとします。
  • (教え)2-3節。覆われたもの、隠されているものは、あらわにされ、人に知られるものとなります。隠しごとはできないということですが、偽善はばれるということです。自分をよく見せようとしても、それはばれるというのです。
  • なぜ人は自分をよく見せようとし、自分の悪いところは隠そうとするのでしょうか。他人からよく見られたいとは誰しも思います。そのために心を煩わせます。人の目が気になります。あるいは積極的に、自分をよく見せようとします。人の目を気にするから、自分の悪い点は隠し、よく見ようとします。結局、神の愛の中に置かれていることを知らないと、神の憐れみの中に置かれていることを知らないと、私たちは自分が自分自身であることに耐えられないのです。そこで自分をよく見せようとします。自分を知られることの恐れが根深く、私たちにあるのです。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父、人はありのままの自分を受け入れることに困難を覚えるものです。ある人は積極的に受け入れることのできる自分をつくろうと努力します。自分を進歩させようとします。牧師として働いていたときの私もそうでした。でも自分が納得できるような自分に進歩、成長することはできませんでした。現実の自分を否定して、あるべき自分を追い求めるというのは苦しいものがありました。
  • 自分を積極的によく見せようとして別人を演じることは私にはできませんでした。また自分はこんなもの、と卑下することもできませんでした。いずれも偽りだからです。大事なのは人目ではなく、神の目であると知りました。神の目に自分は正しい者であり、神の子であることを信じました。心に安定が生まれ、少しでもいいから、神さまの御心に近づきたいと願い、御心に生きる努力をしてきました。それは今も続いていますし、これからも続けていきたいと思っています。神さまが私を成長させてくださるので、神さまにおゆだねすればよいことを学びました。偽善者になる必要もなく、自分をよく見せる必要もありません。何と自由なことでしょうか。
  • 自分が偽善者にならないという保証はありませんが、自分を偽ることや別人を演じる必要がないことをあなたによって教えられたことは、本当に感謝なことであると思いました。あなたの愛の中で自分らしく歩み、あなたによって成長させていただきながら生きることができることは本当に幸いで、このような導きを与えてくださったあなたを心から賛美します。
☆神の導き
  • これまでの神さまの導きに感謝し、神さまをたたえる。

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