20018年11月16日
(内容)
- 神の国は目に見える形では来ない、あなたがたの間にあるのだとイエス様は教えられました。また人の子が到来するときのことについても語られました。
(黙想)
- ここにはイエス様の二つの教えが書かれている。一つは、ファリサイ派の人々の質問に答えたものであり、神の国についての教え。神の国はいつ来るのかとファリサイ派の人々がイエス様に質問しました。イエス様は、神の国は、見える形では来ない、また「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもなく、あなたがたの間にあると答えられました。神の国は将来完全な形で到来しますが、すでに今、私たちは神の国を経験しています。神の国とは神の御支配であり、私たちは今、神の御支配を信じ、神の御支配の中を歩みます。
- 今ひとつイエス様は弟子たちに、人の子の日について語られました。弟子たちが人の子の日を見たいと望む時が来る、でも見ることはできないとイエス様は語り、さらに人の子が現れる日について語るります。
①人々が人の子はあそこにいる、ここにいる、といっても出て行ってはならない。
ここでイエス様は、人の子はまず、今の時代の者たちから排斥されることを告げます。そして人の子の現れる日について語ります。
②人の子が現れるとき、ノアの時代にあったようなことが起きる。つまり人々は食べたり飲んだりしているが災いが起きて一人残らず滅びることが起きる。ロトの時代にも同じようなことが起きた。これと同じことが起きるとイエス様は語ります。「同じこと」とは、突然に終わりの日、裁きの日が来ることなのか、それとも突然の裁きによって罪が裁かれ、ほとんどの人が滅びるということなのか。
③そしてその日、自分の命を生かそうと務める者はそれを失い、それを失う者は、かえってそれを保つ。
④また二人いれば、一人は連れて行かれ、一人は残ると言います。
- 人の子が現れる日に起きることが三つ語られている。。②について言えば、救われるのはわずかな人で、それ以外の人は皆滅びるという内容。あるいは人の子の到来は突然であるとの内容。③については、自分の命を生かそうと努める者は失い、それを失う者はかえって保つという教え。これは別な文脈でも語られている教えである。イエス様のために命を失う者はそれを得、自分のために命を得ようとする者は失うという教えである。④については、二人の人がいると運命が分かれるという内容で、どちらが救われるかは運次第とも読める。最後のイエス様の言葉、「死体のあるところには、はげ鷹も集まるものだ」は、意味不明。神の裁きは必ず起きるという意味なのか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)21節。神の国は私たちの間にある。私たちは神の御支配の中を今、生きている。
- (教え)27~29節。人の子の日は突然来る。そして裁きが行われる。決められた人だけが救われる。
- (教え)33節。自分の命に執着する人はそれを失う。イエス様の弟子としての生き方をすることの大切さを教えられる。自分の命を得ようとする者はそれを失い、イエス様のために命を捨てる者はそれを得るとある。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、人の子についての教えは必ずしもわかりやすいとは言えませんが、イエス様の再臨を教えられます。イエス様が再臨されると、終わりの日の裁きがなされ、神の国が実現します。そのことを素直に信じ、終わりの日に備える歩みをしたいと思います。また老いの中にある者として、自分の人生の終わりに備えることも必要ですね。私にとって終わりに備えるとは、希望を持つことです。死を越える希望について聖書が語っていることを知り、自分もその希望に生きることです。それは具体的には、聖書の言葉を思いめぐらすことに他なりません。トゥルナイゼンの『御手に頼りて』という説教集は、死を越える希望を示す聖句に基づいて語っていて、それを読むのが楽しみです。だいぶ読み進めてきましたが、まだ読み終えてはいません。そこで取り上げられている聖句を自分でも味わい、自分の希望にしたいと願っています。
- 今日、説教集から一つの説教を読みます。あと四つの説教を読むと読み終わります。今週二つ読み、来週二つ読んで読み終えることにします。その後この本で紹介された聖句をリストアップし、黙想するテキスト、そして機会があれば説教するテキストにしたいと思います。
☆与えられた導き
- 今週、来週、トゥルナイゼンの『御手に頼り手』を読み終える。
そのために手帳に読むに印をつける。