2020年10月6日
(内容)
- パウロは、教会の中で争い対立しているコリント教会の人たちを高ぶっていると咎めている。キリスト者とは、自らを誇るような存在ではないことを教えている。
(黙想)
- 6節。パウロはまず、自分もアポロも神に仕える者であり、そのことを知るようにと念を押す。「書かれているもの以上に出ない」とは、仕える者は、あくまでも仕える者であることを教えている。アポロやパウロを担ぎ出し、指導者と仰ぎ、誰が一番すぐれた指導者であるかをめぐって対立することは高ぶりに他ならないと咎める。
- 7節。もし自分が誇るに足る人間なら、だれがあなたがたをすぐれたものとしたのかとパウロは問う。自分の努力で自分を優れた者としたのか、それとも神のおかげなのか。コリント教会の人たちは、信仰者としての自分を誇っていたのだから、それは神の導きであり、自分を誇るのは違っているのではないか、とパウロは語る。
- 8節。高ぶる様子を大金持ちになり、王様になっているとたとえる。皮肉が込められている。自分たちが真に王であると自覚するなら、パウロたちも同時に王にしたであろう。パウロたちを王にせず、裁くのは自分たちは王であるとの高ぶった思い込みのせいである。
- 9節。神は、パウロたちを最後に引き出される死刑囚のようにした。あるいは見世物にした。どういうことか。映画「クオ・ヴァディス」の中で、クリスチャンが捕らえられ、競技場の中に連れ出され、ライオンの餌食になるのをローマ人たちが観客となって見るという場面があった。見世物になるとは、人々から人間扱いされず、人々が面白がる対象にされてしまうことを意味しているのではないか。
- キリスト自身、十字架にかけられ、見世物にされ、人々にバカにされ、あざけられた。本来キリスト者というのは、世間の人からは認めてもらえない存在である。人間は罪人であり、神の怒りのもとにある。キリストが十字架につき、人間の罪を負われた。そのおかげで我々は罪赦されるとの教え。世間の人は受け入れないだろう。自分が罪を犯す者であり、神の怒りのもとにあるなんて、到底信じられないし、愚かな教えに思える。自分がそのような者であることを認めるなんて、自尊心が許さない。
- 10節。コリントの人たちは、自分たちを賢く、強く、尊敬を受ける者と考えているとパウロは語る。キリストが見世物にされ、あざけられているのに、自分たちは立派な信仰者であると誇ることのおかしさをパウロは指摘する。
- パウロは自分たちのことを、キリストのために愚か者となり、弱くなり、侮辱されている。キリストに倣う歩みをしているとパウロは言っているように思える。
- 11~13節はキリストが十字架の上で、自分を殺そうとし、あざけっている人たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのですから」と執り成しをしている場面を思い起こさせる。キリスト者とは、愚か者となり、世間からはバカにされるかも知れないが、なお世の人々の救いのために働く者であるとパウロは語る。
- 人間ならだれでも自分を誇りたく思う。しかし「誇る者は主を誇れ」。自分を誇る者は、他者をおとしめる。コリント教会では、自分たちを誇り他者を裁き、おとしめていた。互いのそのようなことを行い、争い対立していた。
- 主を誇るべきことを教えられる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>神は私たちを見世物にする。人々から人間扱いされず、面白がられる存在にする。御子キリストも、人々からあざけられる中で十字架で亡くなった。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>自分を誇ることをしない。与えられたものをさも自分のものであるかのように誇ってはならない。
- <模範>キリストのように、人々からあざけられてもなお人々の救いのために生きる。それがキリスト者である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あらためて自分を誇ることの傲慢さ、そして主イエスを模範として歩むべきことを教えられました。主は自分を無にして十字架の死に至るまであなたに従順に歩まれたことを思います。それは私たち人間の救いに仕えるための歩みでした。福音を伝える者であっても自分を誇ることをせず、誇る者は主を誇れ。心に刻みます。自分を誇ることのないように。
☆与えれた導き
- 自分を誇らず、主を誇る。これを今一度心に刻む。