マルコ福音書 14章3~9節 できる限りのこと

2022年3月7日

(内容)

  • イエスはベタニアの重い皮膚病のシモンの家で食事をしていた。すると一人の女性が、香油をイエスの頭に注いだ。そこにいた人々は、香油の無駄遣いを責めたが、イエスは彼女は自分の葬りの準備をしたと語る。

(黙想)

  • 重い皮膚病のシモンは、ここしか登場しない。皮膚病は癒やされているのかどうか分からない。律法に従えば、重い皮膚病の人は自分を隔離し、人々との接触を断たねばならなかったから、おそらく彼はイエスによって癒やされたと考えることができる。イエスは人々からは毛嫌いされる人とも交わりを持っていたことがわかる。何の偏見も持たず、すべての人を愛するイエスがここにいる。
  • イエスがシモンの家にいることを聞いた一人の女性が、シモンの家に来る。高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってくる。この人はどんな人なのか。高価な香油を持っているので、富裕な人なのか。三百デナリオンの価値がある香油という。一デナリオンは労働者の一日の賃金と言われるから、相当高価なものである。一般の人が持てるものではない。彼女がどんな人かは、何の説明もない。
  • 彼女は香油の壺を壊し、香油をイエスの頭に注いだ。彼女は何のために行ったのか。どれぐらいの量かは分からないが、人々は無駄遣いとみているので、壺に入っている香油全部をイエスの頭に注いだと思われる。
  • 彼女は何のためにこれを行ったのか。イエスはこれを自分の葬りの準備と受けとめた。マルコ16章では、3人の女性がイエスに油を塗るためにイエスを葬った墓に出かけている。
  • ちなみにメシアとは油注がれた者の意味であり、イスラエルでは王、預言者、祭司がその務めにつく任職の時に油を注がれたという。
  • ルカ7章では、罪深い女とされる人が、ファリサイ派の人の家で食事をしているイエスのもとに来て、香油の入った石膏の壺を持ってきて、香油をイエスの足に塗ったというエピソードが書かれている。彼女の行為を非難したファリサイ派の人に対して、イエスは「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかった」と語る。この罪深い女とされる人は、イエスの足に香油を塗り、自分の髪の毛で足をぬぐい、イエスの足をきれいにした。
  • この場面では、女性がイエスの頭に香油を注いだ。彼女がどんな人で何のために行ったのか。それはわからない。イエスに対する敬意を表す思いの表れかも知れない。
  • そこにいた人々の何人かが彼女の行為を厳しく咎めた。無駄遣いしたというのである。注ぐ代わりに貧しい人たちに施しができたと言って責めたのである。他者の行為を他人があれこれ言う必要はない。人は他者の行為を裁きたがる。それによって自分の優位を誇り、満足する。
  • それに対してイエスは、彼女を困らせるなとかばい、彼女は自分の葬りの準備をしたと語る。さらには彼女の行為は福音が宣べ伝えられるところで語り伝えられると語る。福音書を通して私たちのもとにも彼女の行為は届いている。イエスは彼女の行為を自分の葬りの準備と受けとめた。まもなくイエスの死の時は来る。イエスはご自分の死を意識している。それで彼女の行為を葬りの準備と受けとめた。好意的に受けとめているし、死に向かう自分の励ますものとイエスは受けとめたのではないか。
  • イエスは彼女について、「この人はできる限りのことをした」と語った。彼女はイエスに対して、できる限りのことをしたという。イエスに対して人ができる限りのことをしたとき、他人の目には、それは異常と見えるのかも知れない。論外の行為に映るかも知れない。しかしイエスは、きちんと受けとめてくれる。
  • イエスに対してできる限りのことをするという点で、自分はどうなのか。果たしてイエスは、自分ができる限りのことをするのに値する人なのか。自分がイエスをどう思うか、それによって行動が変わってくるし、どれほどのことをするかも変わってくる。その意味ではイエスのことをさらに知ることが大切となる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>人の真心を受けとめる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエスに対してできる限りのことをすること。
  • <警告>簡単に人を裁くことをしない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日の聖書を読んで、「この人はできる限りのことをしたのだ」という言葉が印象に残りました。空しさからの救いを求め、そのためなら死んでもいいと思えるようなことをしたいと願っていた私をあなたは信仰に導き、さらには牧師としての働きへ召してくださいました。私なりにできる限りのことをしてきたとつもりです。あなたの目から見たらどうなのか分かりませんが。
  • イエス様のことを知れば知るほど、イエス様のために仕えるというか、できる限りのことをしたいとの思いになります。その意味では、さらにイエス様のことを知りたいと思いました。讃美歌に「さかえの主イエスの十字架を仰ぎ見れば」とあります。イエス様のことを「さかえの主」と語ります。英語ではPrince of Glory です。「さかえの主」としてイエス様のことを知りたいとの思いがあり、ささやかながら努力をしていますが、今日ははっきりと知りたいと願います。知ることによって私の歩みが変わることを期待します。
  • 天の父よ、導いてください。まず祈ります。
☆与えられた導き
  • さかえの主であるイエスのことをもっと知ることができるように祈る

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