2022年5月6日
(内容)
- イエスと弟子たちは湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。その周辺の町や村を歩かれ、多くの人の病を癒やした。
(黙想)
- 人々はイエスがおられると知ると病人を連れてイエスのもとに行った。病人の癒やしは痛切な願いであった。なかなか治らない病人を抱えて人々は生活をしていたことがわかる。
- 病人の癒やしは人々の切なる必要であった。そしてイエスはその必要を満たした。いやしを求めにイエスのもとに来た人たちが癒やしを得た後どうしたのかは書かれていない。この箇所では、イエスのもとに来た人々にイエスが教えたとは書かれていない。次から次に病人をいやされ、癒やされた人は帰って行ったと思われる。いやしを求める人が多く、教える暇はなかったと思われる。
- この短い段落は何を伝えようとしているのだろうか。イエスは単純に人々の求めに答えて病人を癒やしたことを伝えている。普通の人にはこのように病人を癒やすことはできない。牧師だからといってできるわけではない。病人をいやすことができるイエスは特別な人である。神の力を帯びた人物と言える。このことをマルコは伝えたいのか。
- イエスのもとに病人を連れてきて、病人がいやされ、人々は自分の家に帰っていったと思われる。彼らの必要をイエスは満たした。では自分の必要を満たされればそれでいいのか。さらにイエスと関わり、イエスの教えに聞くのか。聖書の教える信仰は御利益信仰ではない。神は私たちの必要を満たしてくださる方であるが、それにとどまらない。神は私たちとの関わり、交わりを求める方である。この段落は、自分の必要を満たされれば、それでいいのか、と問いかけているのか。
- やはりイエスに注目した方がよい。イエスは病人をすべて癒やすことのできるお方である。病気を癒やすという尋常ではない力を持つお方である。イエスは何のためにおいでになり、病人を癒やされたのか。病人の癒やしは、イエスがこの世に来た第一の目的ではない。何の目的にためにおいでになったのか、私たちにイエスのおいでになった目的を考えるように促している。病気を癒やすことより大きな事を行うことができるお方である。罪を治療する方、人々を神への従順に導くことのできるお方である。
- 病気は人間を苦しめる。病気の癒やしは苦しみからの解放である。病気の癒やしはしるしであり、イエスは人間を、その魂の苦しみから救う方であることを示しているのか。つまりイエスは罪から私たちを救う方であることを指し示しているのか。
- イエスが力ある方、神の力を行使できる方、神であることを忘れてはならない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子> 病人を癒やす方。人々の苦しみを憐れみ、癒やされる方。いやしを求めるすべての人をいやした。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、病人を抱えて苦しんでいる人たちは主イエスによって病人がいやされ、喜んだことと思います。主イエスは私たちの苦しみをご存じであり、苦しみから私たちを救うことのできるお方であると信じます。
- 私は病気ではありませんが、死の恐れや空しさから救われたことを思います。そして主イエスを信じ、主イエスに仕え、福音を宣べ伝える者としてあなたに、そして主イエスに仕えてきました。感謝です。
- 今なお、主イエスの救いを必要としている人たちがいます。肉体の病気はだれもが気づき、いやしを求めます。今は医療技術が進み、多くの病気が治療によって癒やされるものとなりました。しかし人間の罪という問題については、人々は気づかず、気づこうともせず、この世界は罪がもたらす様々な問題に満ちています。そして終末の時まで、この状態は続くのだと思います。罪という観点から見れば、人類は少しも進歩していません。そして教会は福音を宣べ伝える使命をあなたから与えられています。
- 教会は歴史の中で福音を宣べ伝え続けてきました。これは世の終わりの時まで続くと思います。私はこの歴史の中で短い期間、日本という国で福音を伝える務めを与えられました。あなたから与えられた務めを果たすことができたと考えています。十分ではありませんが、この務めに生かされたことを感謝しています。
- 今、私は牧師としての働きからは退きました。ひとりの老いた信仰者です。願うことは一人でも多くの人が主イエスを信じることです。そのためには福音が力強く宣べ伝えられることが必要ですし、宣べ伝える者が福音に生きていなければなりませんね。福音は知識として伝達できるものではありません。福音は証しとして伝えるべきものです。
- この日本の状況を主イエスはどう思っておられるのでしょうか。今日は静かに主の思いを聞いてみたいと思います。
☆与えられた導き
- 主イエスの思いに聞く