2023年1月10日
(内容)
- イエスは十字架を担ぎ、ゴルゴダの丘まで歩くことになった。そして十字架につけられた。そこでもまた人々からののしられた。
(黙想)
- 鞭打たれたイエスの肉体は弱り、十字架を担ぎ続けることができなくなった。そこでローマの兵士はそこに居合わせたキレネ人シモンに十字架を担がせた。
- ここには、シモンの二人の子の名前が書かれている。シモンは、この出来事をきっかけにイエスを信じ、2人の子もイエスを信じたと推測できる。
- シモンとイエスの出会いは偶然であったが、同時に神の導きでもあった。日々の出来事の中で偶然と思えることの中に神の導きのあることを思う。
- イエスは鞭打たれ肉体的には相当なダメージを受けていた。だから十字架を担うことができなくなった。さらに十字架につけられるときは、手足は釘で打たれ、相当の苦痛を受けながら十字架の上で亡くなった。また十字架の上でも人々から侮辱された。
- どうしてイエスはみじめな姿をさらし、ひどい苦痛を耐えたのかと思う。救い主としておいでになったのに人々から侮辱され、抗議をしない。なすがままにされている。
- イエスは、神の御心に従順に歩まれた。しかしそれはひどい侮辱を受ける歩みでもあった。どうしてそのような歩みができたのかと思う。
- 人間は上昇志向を持つ。上の地位を求めて、より大きな力を求めて、より多くの富を求めて生きる。しかしイエスは神であるのに人となり、さらには人々から侮辱され、愚弄されるようなみじめな姿をさらした。なぜそこまで低きに下ることができるのか。自分のプライドを捨て去り、人々のなすがままに身を任せることができたのか、なかなか理解できない。
- 人間に対する愛のゆえに、と答えることができるかもしれないが、するとその愛とはどういうものか、理解しがたい。
- イエスは、弟子たちに自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさいと教えられたことがある。イエス自身、自分を捨てて、神に対して徹底して従われた。自分を捨てることは私たちには簡単なことではない。人は自分のために生きている。自分を捨てることは相当むずかしい。
- 人は何のために生きるのか、生きる目的は大切である。イエスにも生きる目的があった。人間を救うという神の計画を担うという目的。
- そのような歩みをするイエスって私たちにとってどのようなお方なのか。救い主と聖書は告げる。しかしイエスを理解するには、罪という溝があって、なかなか理解できない。
- 使徒パウロは、キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさという言葉を残している。パウロは徹底的に低きに下り、人々から侮辱されみじめなイエスを知ることが素晴らしいという。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人々の嘲り、罵りを受けながら、肉体の苦痛を受けながら十字架につけられた方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスの苦悩を黙想し、そこまで救い主が悩まなければ救われない救いとは何かを思い巡らす。
- <勧め>パウロはキリストを知る素晴らしさを知った。私たちも知りたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、受難の場面に特徴的なことは主イエスが人々から侮辱されても主イエスは怒ることなく、抗議することなく、なすがままにされていることです。神である方が人となり、人類を罪から救うために、十字架で死ぬのです。もし自分が主イエスだったら、主イエスのように歩むことはできません。主イエスの気持ちが理解できません。
- しかし使徒パウロは、キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさを語ります。その素晴らしさを低きに降る主イエスの姿は結びついていると思います。
- 私もまた、キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさを知りたいと願います。天の父なる神さま、教えてください。
☆与えられた導き
- キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさを知ることができるように導きを祈る。