2023年1月12日
(内容)
- アブラハムのことが聖書に書かれているのは、私たちのためである。主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、義とされる。
(黙想)
- 神はイエスを私たちの罪のために死に渡された。神はイエスを十字架で死ぬように定められたのである。さらに神はイエスを死者の中から復活させた。この神を信じる者は義とされるとパウロは書く。3章22節では、イエス・キリストを信じる者は義とされるとある。
- 要するに、神による救いの出来事を信じることにより人は義とされる。その出来事はイエス・キリストが死んで復活する出来事であり、このイエスを神はキリストとしてお立てになったことを信じることである。
- パウロは信じることの大切さを説く。神を漠然と信じるのではなく、アブラハムは神の約束の言葉をかたく信じた。イエス・キリストの出来事について言えば、神がイエスを死に渡し、しかもイエスを死者の中から復活させたことを信じる。ただ出来事を信じても意味はない。その出来事の意味を信じることが大切である。
- 「イエスは、私たちの罪のためにイエスは死に渡され」。神はイエスを罪を贖ういけにえとされたのである。それは罪を贖うためのいけにえとして、イエスが十字架の上で屠られたことを意味する。イエスを信じる者は罪が赦される。旧約において神は、罪を犯したときは贖いのいけにえを献げることを命じた。
- 「イエスは、私たちが義とされるために復活させられた」。私たちが義とされるためには、イエスの復活の事実を信じることが大切である。
- パウロは6章で洗礼を受ける者は、キリスト・イエスに結ばれ、キリストと共に死に、キリスト共に生きると書いている。イエスが贖いのいけにえとなるのは、信じる者たちが罪から解放されるためである。旧約において、罪の赦しを得るためにいけにえを献げたが、それは罪の赦しが目的である。そのいけにえは律法を守るようにする力はない。イエスといういけにえが新たに必要とされたのは、信じる者が神の律法を守れるようにするためである。そのための道筋は、キリストと共に死に、キリストと共に生きることにある。だから復活を信じることがとても大切となる。3章31節でも、私たちは信仰によって、律法を無にするのではなく、むしろ律法を全うすると書いている。
- 信仰義認を語るとき、律法を全うすることも視野にいれて語るべきである。しかし義認を語るとき、罪の赦しを語ることに傾く傾向があると思う。神が信じる者を義とするのは、和解のためであり、信じる者を神との交わりに受け入れるためである。義とされた者が神の子としてふさわしく歩むことを神は願う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神は、私たちの罪のためにキリストを死に渡され、私たちを義とするためにキリストを復活させた。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>義とされた者は、律法を全うするように義とされている。キリストの死は罪の赦しのためであり、キリストの復活は、信じる者に律法を全うさせるためである。
(神の導き)
☆祈り
- 父なる神さま、23~25節を特に思いめぐらしました。あなたは私たちを義とするためにキリストを復活させたことに注目しました。今まで、この文章を見過ごしてきました。キリストによる救いの恵みは、罪の赦しだけではなく、律法を全うさせる恵みでもあることを教えられる思いがします。でもこのことはあまり語られないことも事実です。
- 聖書黙想として、ブログに書いてみたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- ブログに黙想を書く