ローマ 8章31~36節 神の愛

2024年12月19日

(内容)

  • パウロは、キリスト者に対する神の愛が絶大なことを表現を変えて述べている。

(黙想)

  • 「これらのことについて何と言ったらよいだろう」(31節)。「これらのこと」とは、これまでに述べてきたことである。これまでパウロが述べてきたことを「X」とする。すると31節以降では、「X]を前提とするなら、次のことが言えるという形で文を連ねている。
  • 「これらのこと」はロマ書のどこで語っていることなのか、あるいは、どういう主題についていっているのか。とりあえず、8章の最初からと考えたら、「これらのこと」はどういうことか。
  • 31~36節を読むと、神はキリストを信じる者について、罪に定めることはないし、キリストの愛からキリスト者は引き離されないことを語っている。要するにパウロは、神の愛を語り続けているのである。
  • 8章の最初から読み直し、パウロが神の愛をどのように表現しているのか、それを今日の適用としよう。
(与えられた導き)
  • 8章を読んで、パウロは何を語りたかったのかを観察する。
観察結果
  • 「これらのこと」は、3章21節以降全体を考えた方がよいと思われる。私たちは信仰によって義とされる、ここに救いがある。これがパウロの主張である。ここに救いの確かさがあるとパウロは語る。
  • 5章前半では、私たちが不信仰の時、神は恵みによって救ってくださるのだから、信仰に入ったなら、犯した罪に対しても神は許してくださり、救いを取り消すことはない。
  • 5章の後半では、人類はアダムの系統とキリストの系統に分けられると語る。アダムの系統に属する者は皆、その罪が裁かれる。しかしキリストを信じ、キリストの系統に入った者は、義と宣言され、救いは確かである。
  • 6章では、キリストを信じ恵みによって罪赦されるなら、恵みを受けるために罪を犯そうと考える人への反論。キリスト者は、罪を犯そうなどとは考えない。何故なら、罪から解放されているから。キリスト者は聖なる生活を目指す。
  • 7章ではキリスト者は律法を軽んじているのではないかとの批判への反論。信仰によって義とされる、律法の行いによっては義とされない。この主張は律法を軽視しているとの批判を招きかねない。しかしパウロは、聖霊に導かれる信仰者は律法を全うすると説く。
  • 以上を踏まえて、キリスト者の救いは確実である、とパウロは説く。
  • 「これらのことを踏まえて」とは、以上のような議論を踏まえてと考えるのが一番良いと思われる。8章だけでは不十分な気がする。

この記事を書いた人