2018年4月25日
(内容)
- 祝福を受ける人と呪いを受ける人について。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)御自身の支配を私たちに与えてくださる方。神さまのご支配の中に私たちを置いてくださり、私たちの神となってくださる方。
☆神が求める私たちの生き方
- (教え)20節。貧しい人は幸いである。神の国は、あなたがたのものである。
- (教え)21節。今、飢えている人々は幸いである。
- (教え)21節。今、泣いている人々は幸いである。
- (教え)22節。イエス・キリストのために人々から憎まれ、またののしられ、汚名を着せられるとき、幸いである。
- (教え)26節。すべての人にほめられるとき、不幸である。
(黙想)
- 常識的に言えば、私たちには理解できない主イエスの言葉です。納得できないことが教えられています。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えられます(4:43)。神の国の福音とは、神さまの御支配があなたがたの上にある、あなたがたは神さまの御支配の中を生きることができるということです。神さまが私たちと共におられ、私たちが神さまの御支配の中にいるなら、貧しくても、飢えていても、泣いていても、迫害されていても、幸いであると主イエスは教えられました。
- 主イエスの言葉あるいは神の言葉は、私たちの常識で受け入れることができるものではなく、聖霊の導きによって受け入れることができます。そもそも神を信じることも、常識で納得できるものではありません。そこには聖霊の導きがあります。そして主イエスの言葉、神の言葉は、真理であると体験することができます。
- 20節で「さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」とあります。これらの幸いの教えは、弟子たちに向けて教えられたものです。
- イエス・キリストを宣べ伝える弟子たち。宣教の困難をパウロはコリントの信徒への手紙11章で述べています。投獄されて鞭打たれたこと、飢え渇き、寒さに凍えたこと。色々な困難が挙げられています。パウロは、さまざまな困難に見舞われても宣教をやめませんでした。「誇る必要があるなら、私の弱さに関わる事柄を誇りましょう」とさえ語ります。そんなパウロに神さまは、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で発揮されるのだ」と語られました。
- 貧しさ、飢え、泣きたくなる困難に直面しても、その時こそ神さまの力、導き、守りが発揮されるので幸いなのだ、と主イエスは教えておられます。そしてパウロはこのことを身を以て経験し、証ししています。
- 逆に弟子たちは、富み、満足し、笑うなら災いであると言われます。自分の働きの成果の大きさを誇り、満足し、笑って喜ぶのは弟子のあり方ではないのです。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書には慰められるものがありました。私は貧しい者、土の器に過ぎません。私の力など微々たるものです。その私をあなたは福音宣教の働きに召してくださり、私はあなたと教会に仕えてきました。引退した今、出席している教会のために祈り、同労者のために祈り、説教奉仕のために祈り、説教の準備をし、またこうしてディボーションの内容をサイトに載せ、神の言葉によって生きる歩みの証しをしていますが、空を打つような思いになることも事実です。
- 先日、ちょっとしたことで、自分の内にある思いを知らされました。今日の聖書に「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」と主イエスはおっしゃいました。すべての人からほめられ、認められようとは思いませんが、自分の働きを認めてもらいたいとの思いのあることに気づきました。私は終わりの日に、神さまから、「よくやった。忠実なしもべよ」と言っていただければ、それで十分と思っているつもりでしたが、肉なる人間としての思いがあることを知らされました。
- でも今日は、だからこそ幸いであると教えられました。飢えても、泣いても、ののしられても、神の国は私のものです。私はあなたのご支配の中を歩んでいます。あなたの導きの中を歩んでいます。弟子の道は、いつも順境とは限りませんね。イエス様ご自身、苦難の道を歩まれ、十字架の死に至るまで、あなたに従順に歩まれました。今日は思いを新たにすることができました。感謝します。
- 私はあなたの導きを信じます。私はあなたによって用いられることを信じます。あなたが私をどう用いられるか、私が十分知らずともよしとし、あなたにおゆだねします。
- 心を平安にし、今日は5月の説教予定を決め、読み続けているルターの『キリスト者の自由を』読みたいと思います。
(与えられた導き)
- 5月の説教予定を決める。
- 『キリスト者の自由』を読む。